文字サイズ変更 拡大標準
背景色変更 青黒白

有田の陶磁史(42)

最終更新日:

これまでに、砂目積み段階前半期の主体となる皿類について述べてきました。初頭には、胎土目積み段階後半期に主力となる器形である折縁皿や縁を折らない丸皿に類する器形の砂目積み製品が生産され、ほどなく、溝縁皿主体に変化します。ただ、この前半期には、溝縁皿以外にも、比較的多様な器形の皿が生産されており、溝縁皿には皆無ですが、鉄絵をするものなども珍しくありません。

ところが、砂目積み段階も後半期になると、陶器の皿としては、溝縁皿以外はほとんど見られなくなってしまいます。ということは、溝縁皿は無文が原則なので、鉄絵製品も消えてしまうということです。これは碗をはじめほかの器種でも同じです。また、胎土目積み段階には口径が40cm近い大皿を生産していたような小溝上窯跡や山辺田窯跡などでも、砂目積み段階になると、30cmを超えるようなものはなくなってしまいます。

有田では、胎土目積み段階の後半期になると、窯詰めの際に目積みしない皿類がなくなり、すべて目積みする製品に変化します。これは、以前窯詰め技法を説明した時に記したと思いますが、陶器が下級品に集約されたこと、つまり雑器化したことを意味します。この傾向は砂目積み段階にも引き継がれているというか、肥前全体を見渡しても、砂目積み段階になると、目積みしない製品はなくなります。ただし、有田には例がありませんが、砂目積み段階に至っても胎土目積み段階の組成を維持しているような地域では、目積みしない製品もないわけではありません。

この砂目積み段階の最大の特徴は、何といっても磁器がはじまることです。以前記しましたが、陶器を生産していた窯の中で、ある日突然磁器の併焼がはじまります。砂目積み折縁皿の生産期の頃には、例外的に小溝上窯跡については可能性が残るものの、通常は、どこの窯場でも、磁器は溝縁皿の出現期とほぼ同時に現れます。

ちょっと横道にそれますが、消費遺跡などでは、その地域での磁器の出現期を基準として、そこからあまり遡らない時期に磁器が誕生したのではという見解が示されたりすることがあります。そういう場合は、だいたい1620年代くらいということが多いように思います。でも、これはちょっと捉え方としては乱暴です。誕生したての磁器がそんなに多く流通するとは限りませんし、たまたまそれが発掘調査した地点に廃棄され出土する確率なんて、針の穴を通すようなもんではないでしょうか。

先ほど示したように、窯跡などでは、磁器の誕生期に共伴する陶器の組成は明らかになっています。そうすると、原理的には、磁器は出土していなくても、すでに当時肥前陶器は大量に流通していたわけですから、どんな種類が出土しているか確認すれば、磁器の出現期は必然的に分かることになります。溝縁皿が出ていれば、ほぼ完璧です。ただ、肥前の中でも生産地域によって、磁器誕生期の窯詰め技法は異なりますので、肥前のどこらあたりの製品が出土しているのかということも、一応念頭に置いておく必要はあります。

実は、伝世品の中には、内面口縁部に「元和二年」(1616)の銘を鉄絵で配した溝縁皿が知られています(九州陶磁文化館『日本磁器誕生』展図録 2016 P4 No.003)。したがって、磁器誕生の想定できる下限は、元和二年よりそれほど下がるとは考えにくいと思います。上限も1600年代はバリバリ胎土目積み段階というか、その最盛期だったことは、消費遺跡の調査などでも確認できますので、その後、砂目積み段階前半期初頭の組成を挟むと、やはり上限も元和二年からそれほど遡れないだろうと思います。つまり、上下からギュギュッと挟むと、1610年代中頃というところに落ち着くかなという感じでしょうか。これについて、次回は、文献史料等との整合性が取れるのか、検証してみることにします。(村)H30.6.8

 

図1
図1 小物成2号窯跡の砂目積み段階前期の組成(有田町)*32〜35は磁器
図2
図2 古屋敷窯跡の砂目積み段階前期の組成(武雄市)*69と84は磁器

 

このページに関する
お問い合わせは
(ID:1222)
ページの先頭へ
有田町役場 文化財課

〒844-0001 佐賀県西松浦郡有田町泉山一丁目4番1号

電話番号:0955-43-2678

FAX番号:0955-43-4185

© 2024 Arita Town.