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有田の陶磁史(43)

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前回は、磁器は陶器の砂目積み溝縁皿とほぼ同時に出現したこと。また、溝縁皿の伝世品の中には、元和二年(1616)銘のものがあり、消費地の発掘調査資料などから推察すると、限りなくこの元和二年に近い年代に磁器がはじまった可能性が高いことなどをお話ししました。今回は、この年代観に関して、果たして文献史料などと整合性があるのかということについて、少し触れてみたいと思います。まあ、どうせ書きはじめると、一回では終わらないでしょうけど。

もちろん、いつ磁器ができたなんてズバリ記した文献史料なんぞがあれば、はなから苦労なんてしません。ただ、観光雑誌やパンフレットなどでは、今でも、サラリと「元和二年に、李参平が泉山で陶石を発見し、日本初の磁器を創始した。」なんて記されていることも珍しくないので、意外に思われる方もいらっしゃるかもしれませんね。もっとも、そんな雑誌やパンフレットでも、創始場所については今風に、天神森窯跡や小溝窯跡が位置する旧有田町の西部地区だとする場合が目立つようにはなりましたけど。
でも、これって、有田の地理を考えると、ちょっと腕組みしてしまいそうですね。有田の東端にある泉山から、あの重い陶石を西部地区の窯場まで、どうやって運んだっていうことなのやら?当時、有田の東部の地区は、ほぼ人も住んでない、未開の山の中です。きっと、まともな道すらなかったのではないでしょうか。短期間ならまだしも、長期間そんな非効率なことをするでしょうか?

実は、この磁器創始の話しは、もともとのオリジナルは若干内容が違っていました。「元和二年に、李参平が泉山で陶石を発見し、白川の天狗谷に窯を築いて、日本初の磁器を創始した。」というのが本来の定番の一文です。別に観光雑誌やパンフレットだけでなく、学術的にもこれがガチンコの定説だったのです。違いは、磁器の創始場所ですが、天狗谷は泉山と同じ東部に位置していますので、まだ、地理的にはなんぼかマシです。

この説については、また後で詳しくお話しする機会があると思いますので、とりあえず、ここでは元和二年という年代のことだけに絞ることにします。この元和二年とはどういう年なのか?かの徳川家康が亡くなり、一つの時代の画期となった年ですが、もちろんそれとは何の関係もありません。これは、李参平こと初代金ケ江三兵衛が、有田に移住してきたという年で、これ自体は『多久家文書』の中にある、本人が記したとされる文書の写しが原典ですので、信憑性は高いのではないでしょうか。ただ、ズバリ元和二年と書かれているわけではありません。今から38年前の丙辰の年に有田に移住したという内容で、文書が記された年から逆算すると、干支が丙辰である元和二年に該当するということです。

そこで、もう一度、よく考えてみてください。元和二年は、金ケ江三兵衛が有田に移住したという年です。これが磁器の創始と何か関係あるでしょうか?少なくとも、磁器の創始年を表さないことは、ご理解いただけるかと思います。
ということで、まだ長くなりそうなので、続きはまた次回に…。(村)H30.6.15

図1_1
図1 泉山と関連窯跡の位置

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