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有田の陶磁史(44)

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前回は、磁器の創始と元和二年(1616)という年の関係について、文献史料との関わりから触れてみたところでした。元和二年という年号は、有田の陶磁史について記した活字では、かなり頻繁に目にする年号ですが、実は、ずばり元和二年と記された記録はなく、今から38年前の丙辰の年、つまり元和二年に、金ケ江三兵衛が有田に移住したと記す『多久家文書』に由来しています。ようするに、磁器の創始とは直接関係ないのです。

この金ケ江三兵衛について記された文書には、『多久家文書』のほか、金ケ江家に伝わる『金ケ江家文書』などもありますが、三兵衛が直接記した文書の写しとされる先述の『多久家文書』の記述のほかは、すべて200年前後も後の江戸後期に記されたものです。しかも多くは泉山の利権に絡む訴訟関係の文書なので、一定の誤解や脚色があろうことは想像に難くありません。ただ、両文書は、多くは多久邑主で佐賀藩家老を務めた多久家と金ヶ江家の間で取り交わされた、いわば公文とも言えるものなので、そんなに絵空事ばかり書いてあるとも思えません。

話しを元に戻します。では、この三兵衛は、有田のどこに移住したのでしょうか。『金ケ江家文書』によると、「有田郷乱橋」とあります。この乱橋は、現在は三代橋という地名に変わっており、南原(なんばる)地区にあります。この南原地区は、以前から再三登場している小溝窯跡や天神森窯跡が位置する場所で、いわば、当時の窯業地のバリバリ1丁目1番地みたいなところです。

実は、その頃、この南原近辺に移住したと記す文書は他にもあります。一つは、『酒井田柿右衛門家文書』にある高原五郎七に関するもので、元和三年に南川原(なんがわら)に移住し製陶したとあります。また、年代は記されませんが、記述内容から家永壱岐守とその子正右衛門らも、同じ頃に小溝原(こみぞっぱら)に住んでやきものを焼いたことが分かります。おそらく、五郎七が関わった南川原の窯場とは天神森窯跡のことで、小溝原は文字通小溝窯跡の隣接地です。また、三川内の『今村氏文書』には、小溝山のリーダーとして、おそらく金ケ江三兵衛のことと思われる「小溝山頭三兵衛」(こみぞやまがしらさんべい)の記述も見られます。

金ケ江三兵衛と高原五郎七、家永正右衛門は、それぞれ、かつて日本磁器の創始者とする説が唱えられた人達です。では、そんな人達がなぜ、同じ頃に集中してこの南原の地に移り住んだのでしょうか。もう一度、以前お話ししたことを思い出してみてください。当時の有田は、肥前の窯業地の中でも特に目立った場所でも何でもなく、逆に、場末の小規模な雑器生産地に過ぎませんでした。もちろん、別の時期に誰々が有田に移住したみたいな記録が、残されているわけでもありません。場末の窯業地に、元和頃に移住した記録だけが残るのです。正確に言えば、もう少しあとになって百婆仙一族が移住した記述はありますが、これについては泉山の発見に関連して、また後ほど触れる機会があるだろうと思います。

やはり考えられるのは、この中の誰かが磁器をはじめたのでほかの人達が集まってきたか、記録に残らないその他の第三者が磁器を創始したため、これらの三人が集まってきたと言ったところではないでしょうか。磁器を創始したため記録が残ったのだろう、と考えたいところですが、案外そうとも言えません。というのは、現代では、磁器の創始者が誰かということがかなり重要視されますが、当時の人々にとってさらに重要なのは、その磁器という素材を活かして誰が安定的な生活の糧を得られるようにしてくれたのかということです。したがって、この三兵衛、五郎七、正右衛門に関する記述も、かつては磁器創始関連文書として捉えられていましたが、実際には、泉山の発見というところが肝であり、この有田の窯業の首根っこみたいな場所の利権に絡んだことなのです。よって、誰が磁器を創始したのかはっきり記した記録もなければ、創始年に関する記述も皆無なのです。

何れにしても、こうした人達が集まってきたのは、磁器の創始からあまり後では、あえて記録する意味がないのは確かです。そうすると、やはり、文献上からも、限りなく元和二年に近い頃に、磁器が創始されたと考えるのが自然ではないでしょうか。(村)H30.6.22

図1_1

図1 南原地区周辺の主な窯跡の位置図

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