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有田の陶磁史(46)

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前回は、磁器の創始に際して、かつては通説であった泉山の発見によって実現したという捉え方は、なかなかキビシそうだというお話しをしました。では、そういう説はどこから出てきたんでしょうか?

実は、磁器の創始に関する研究自体は、すでに江戸時代の後期にははじまっています。しかし、もっぱら誰が磁器をはじめたのかというもので、当初は泉山の話しはまったく出てきません。意外かもしれませんが、この創始者候補の中に家永の名は見えますが、後にはバリバリの筆頭候補となる金ケ江三兵衛(李参平)の名は、まだみじんもありません。

では、ちなみに江戸時代における、筆頭候補は誰だったと思いますか?前回までに、金ヶ江三兵衛のほか、家永正右衛門や高原五郎七なんかの名前にも触れました。でも、当然、全部違います。

たとえば、嘉永七年(1854)に田内梅軒が著した『陶器考』には、山田五郎大夫という名が出てきます。「それ誰?」って感じですが、もう少し後の明治になってからの史料では、同一人物が、伊勢五郎大夫という名で記されています。まあ、それでも、やっぱり「それ誰?」には違いないでしょうが…。この人、実は、そうした日本名だけではなく、中国名もお持ちです。何と「祥瑞(しょんずい)」と言います。少し陶磁史に興味をお持ちの方なら、当然耳にしたことのあるWordだと思いますが、人物名だと思っていた方は、案外少ないかもしれません。

中国・明末の崇禎期(1628~44)頃に、景徳鎮で生産されたやきものに「五良大甫呉祥瑞造」の銘を付したものがあります。やや厚めの作りで、鮮やかな呉須を用いて、器面を細かい地文や丸文などで埋めたものなどが代表的です。ただ、中国に現存するものはほぼ皆無で、ほとんどは茶道具などとして日本に伝世しています。ただし、銘を付さないものも多いのですが、同様な種類の製品は総称して、「祥瑞」と呼ばれます。

もうお気づきの方もいらっしゃるかもしれませんが、「五良大甫」と「五郎大夫」…、いや語呂合わせではなく、昔の人はマジで、「五郎大夫」さんが景徳鎮で修行した時に日本名をもじって「五良大甫」と名乗ったって考えたのです。名字の伊勢は、三重県の伊勢出身だから。山田も伊勢の地名です。やきものの「祥瑞」が、中国にはなく日本に残ることから、きっと日本人が景徳鎮で修行して作ったんだと考えたようです。

このように、伝世する茶道具発の推定なので、この「祥瑞」説は、当然、茶の湯の世界を通じて、全国に広がっていきました。これに新説が唱えられたのはずっとずっと後、昭和34年のことです。斉藤菊太郎が『陶器全集』の中で、「呉家の五男の家の長子」である祥瑞と解釈し、当時、すでに磁器の創始者が祥瑞だと考える人はいなくなっていましたが、とりあえず、これで「祥瑞」というやきものの日本人製作説は壊滅したのです。

ということで、泉山の話しをするつもりが、まったく関係ない話しになってしまいました。まあ、そのうち泉山にたどり着けると思いますのでご容赦ください。

(村)H30.7.6

図1a図1b

図1a 景徳鎮製の祥瑞碗(山辺田遺跡出土)

〔外面〕

図1b 〔内面〕

 

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