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有田の陶磁史(47)

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前回は、泉山発見の話しをするつもりでしたが、結局、江戸時代に磁器創始者の本命であった「祥瑞」の説明に変わってしまいました。江戸時代の磁器創始候補者について話したので、ついでに明治以降についても触れておきたいような…。というわけで、今日も、泉山にはたどり着けない予感…?

江戸時代の祥瑞説については、前回お話ししたとおり、主に茶の湯の世界を中心に全国に普及しました。明治になると磁器の創始者について触れた文献も多くなるのですが、前期頃までは、まだ特定できないという文献の方が主だったようです。

この全国的には、まだ相変わらず祥瑞説ががんばっている頃、ジワジワのしてきたのが後に定番となる李参平(金ヶ江三兵衛)説です。おそらく、この李参平なる人物がはじめて一般的な書籍に登場するのは、明治10年(1877)の黒川真頼の著、『工芸志料』ではないかと思います。その中の、「有田窯」という項目で、「初め李参平肥前の田中村(注:かつて有田にあったという村です。)に至り、陶器を造り試むと雖も良土を得ず。当時の器往々世に存す、然れども瓷器多く間々白磁の者あり、之を掘出手と云う。其の後白堊を松浦郡泉山に檢出し、始めて精潤潔白の磁器を製することを得たり。相次ぎて遠近より工人集まり、終に一部落をなせり、今の有田焼則ち是なり。」とあります。

ただし、このように李参平を磁器の創始者とする一方で、先ほどの「有田窯」などの小項目を含む「陶工(すえものつくり)」とする大項目の概説には、「此説必しも信じがたし。」としつつも、やはり祥瑞説のみが示されています。「後柏原天皇の時に至りて、伊勢松坂の人祥瑞という者あり、支那に往いて磁器を製する法を学び、其の技妙処に至る。伝えて云う、祥瑞本邦に還り、其の法を肥前唐津等の陶工に伝う。肥前に於いて磁器を製するの始めなり。」という具合です。つまり、新説の李参平の方が正しいと思うけど、その頃一般的だったのはやっぱり祥瑞ですと言っているようなもんです。

この李参平説ですが、当然、地元では最初から人気があった説です。ただ、地元に代々伝承が受け継がれてきたなどという、都合のいい話しなどあろうはずもなく。まあ、ほぼほぼ、『金ヶ江家文書』などの記述に基づいて、語られ出したものです。ですから、たとえば明和7年(1770)の多久家の『御屋形日記』に、金ヶ江家が提出した「申上口上覚」という文書がありますが、その中では、すでに「今は皿山の起源を知るものは一人もなく、起源を知らない不心得によって、(皿山での金ヶ江家の)扱いが以前とは違ってきた。」と嘆いているくらいです。

それはさておき、この明治前期頃は、説の進化(?)の過程というか、アンモナイトの異常進化じゃないですが、まさに何でもアリ。「えっ?そうくるの?」って驚くべき説まで現れています。よほど、矛の収めどころに困ったんでしょうね。たとえば、明治13年(1880)7月3日付け『東京日々新聞』の、次のような説などはある意味リッパ。例の伊勢五郎大夫祥瑞が、中国・明で製陶術を学んで帰り磁器を創始、その後あらためて慶長年間(1596~1615)に、鍋島氏が朝鮮半島から連れ帰った陶工により磁器がはじめられたという二段階創始説です。どの文献だったか忘れましたが、最初は祥瑞が中国の原料を持ち帰って作り、その後、朝鮮陶工が地元の原料であらためて作ったという説すらあったはずです。何でも総花的に合わせれば、いいってもんじゃないと思うんですが…。

そこで、これにさっそくかみついたのが、久米邦武というお方。『有田皿山創業調子』の一節として、「明治十三年東京日々新聞雑報中ニ有田皿山創業誤謬丿調子」ということで真っ向から、祥瑞説に異論を唱えたのです。以後、この問題については段々地元の声が強い力を持つようになるのですが、これについてはまた次回ということで。(村)H30.7.13

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