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有田の陶磁史(48)

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たしか、もともとは、どういう経緯で「泉山で陶石が発見されたことによって、はじめて磁器が創始された」というストーリーができあがったのかという話しをするつもりだったような…?でも、出だしでつまずいて、いつしか完全完璧に磁器の創始者の移り変わりみたいな話しになってきてしまいました。もう、途中で止められないので、とりあえず、この話しを完結させてください。

前回は、明治13年(1880)の『東京日々新聞』の祥瑞、朝鮮陶工の二段階創始説などについてお話ししました。そして、それに対して久米邦武が、著書『有田皿山創業調子』の中で、「明治十三年東京日々新聞雑報中ニ有田皿山創業誤謬丿調子」という1項を設けて、祥瑞説に異論を唱えたというところで終わっていました。

ちなみに、この久米邦武は、元佐賀藩士の歴史学者で、明治4年(1871)には特命全権大使岩倉使節団の一員として欧米視察に随行しており、かの新聞が発行された明治13年当時は太政官の吏員として、『大日本編年史』などの編集に従事していた頃だと思います。その後、明治21年(1888)には東京帝国大学の教授に就任していますが、この『有田皿山創業調子』を執筆したのは、本文中に「承応二年ニシテ今ヲ去ル二百三十五年」の記述が見えるので、1653年+235年=1888年、つまり明治21年となるので、ちょうど教授就任前後の頃でしょうか。

「明治十三年相調東京差越候控」の項(目次と文章のタイトルが違っています)では、『山本神右衛門重澄年譜』や『鍋島直茂公譜』などの記述から朝鮮陶工説を説くとともに、祥瑞説については、「祥瑞丿事藩史ハ勿論該地丿口碑等ニモ絶テ無之 尤茶家骨董家丿披閲スル古伊萬里系圖トカニ祥瑞ヲ元祖ト書シタル由 是ハ好事者流丿モノナルベシ 新聞記者之ヲ信シテ書タルニアラスヤ」として否定しています。

ついでに、「明治十四年九月久米邦武歸縣ニ付再調ニテ遣候控」の項では、有田では祥瑞の時代には磁石も発見されておらず、こんな僻地で不便な場所に祥瑞がくるべき理由があるとも思えないと、余計なお世話ですが、僻地で不便なので、他国人が行くような場所ではないと強調しています。重ねて、「慶長以前有田丿僻境タル事言ヲマタサルナリ」とまで記しています。まあ、たしかに後には磁器生産の中核地となる町の東側の地域は、当初は人も住まない未開の地だったことは否定しませんが…。

また、元和の頃、ないしは元和・寛永の頃に泉山が発見されたことが記されており、すでに泉山の発見と磁器の創始が結び付きつつあります。さらに、「李氏三平ナル者」が白川において陶窯を築き磁器を製したことに触れられており、一応、「李参平が泉山で陶石を発見し、白川天狗谷で磁器を創始した」という、かつての定説の原形がほぼ完成しつつあることが分かります。ただし、「元和二年」という年号は、以前紹介した金ヶ江三兵衛が自ら多久家に提出した文書の写しの年号の解釈として、「丙辰年ハ元和二年也 三十八年之後巳年ハ承応二癸巳年也」と記され、まだ三兵衛が有田に移住した年であり、磁器の創始年とは結び付いていません。

この頃から、少なくとも地元で刊行された書籍では、ほぼ李参平説で固まりますが、一般書籍では、相変わらず、フラフラと焦点の定まらない状態が続きました。その原因の一つは、あるいはこの『有田皿山創業調子』の記述に、あったのかもしれません。

「有田陶器沿革史」の項で、李参平が白川に陶窯を築いて磁器を製したことに続いて、「又字板川内村に於テ窯ヲ築ク(百間釜ト云其跡存在シテ今ニアリ) 此我泉山丿磁礦ヲ発見シ始テ白磁ヲ製スル所トス(中略)而テ其地極テ避遠ナルヲ以テ後ニ字小樽ニ磁窯を移シ之ヲ新窯と云フ」と記されています。これって、磁器の創始は、白川が早いのか百間窯が早いのか、どちらとも取れるような表現です。

これで、また話しがいっそうグチャグチャになってくるのですが、それについてはまた後日。
(村)H30.7.20

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