磁器分類の変遷について簡潔にまとめるつもりでしたが、意外に長くなってしまいました。今日こそは終わります。
前回は、昭和30年代頃に、生産地分類から単純に製品のスタイルに基づく様式分類に変わり、平成の前期まで、“鍋島様式”を除く各様式を一列に並べる変遷が定着していたってところで終わってました。
ところで、昭和の末頃から窯跡の発掘調査が盛んになったこともあり、陶磁史研究の主体も従来の美術史から、急速に考古学に変わっています。この傾向は、平成に入るともっと顕著になり、生産地、消費地を問わず、近世の遺跡を発掘対象とするのが当たり前の時代になったのです。
ところが、そうすると実にやっかいなことが顕在化しはじめました。伝世品中心の研究ではさほど違和感は感じられなかった様式変遷ですが、出土品ではうまく折り合いを付けることが難しいのです。
一つは、どの様式に収めたらいいか分からないものが、どっさりと増えてきたことです。正確に言えば、伝世品でもそういう例はあるんですが、出土品に比べぐっと割合が少ないため、無理やりどこかに収めれば大勢に影響は出なかったということです。もう一つは、出土状況からほぼ同時期と考えられる出土陶片でも、必ずしも同じではなく、複数の様式が混在することです。
こうした従来の様式の変遷の捉え方では、何とも理解しがたいことが起きる理由は、伝世品は最先端の技術を用いた高級品が残りやすいのに対して、出土品には多種多様なランクの製品が含まれるからです。しかも、当然ながら、伝世品にあるような高級品は全体の中ではごく一部で、多くはそれより下のランクのものなのです。
相対的に下のランクの製品ほど、より古い時期にはじまった技術・技法が多く使われています。技術の開発コストもかかりませんし、製陶原料類なども安価なもので済みますし、作り慣れているので生産効率もいいですしね。こんなの、今の工業製品と何ら変わりません。
つまり、少なくとも17世紀後半には、製品ランクによって、複数の様式が併存し、しかも、最高級品以外は正式な様式名はないのです。内山の高級量産品は“古九谷様式”的な下地に南川原山的な要素をパパッと振りかけたもの、同様に中級品の山はパパッと内山的な要素を振りかけたものと、より下級品の山の製品に近いもの。下級品生産の山は“初期伊万里様式”的な下地に中級品の山的な要素をパパッと振りかけたものって言えばいいでしょうか。ただし、ほぼ“初期伊万里様式”ってもんもありはしますが。それぞれ複雑な技術や技法の混じりがありますので、何様式とも言えないってことです。
これが一つにまとまるのがようやく“古伊万里様式”で、つまり、以前のように各様式が時間軸上に一列に並ぶわけではなく、民窯製品で上・中・下のすべてのランクの製品が揃う様式は、“初期伊万里様式”の次は、“古伊万里様式”なのです。その後は、近世の間は、どんなものであろうが、“古伊万里様式”であることには変わりありません。ということは、17世紀の間は製品ランクを規定するのは様式差ということですが、“古伊万里様式”だけになる18世紀には、製品の質差に変わるということです。さらに、19世紀にはまた別の区分の概念が確立するのですが、このあたりのことは、おいおい触れていきたいと思います。
ということで、やっと何となく“古伊万里様式”までたどり着きましたので、これで様式の話に一応区切りを付けたいと思います。(村)
肥前陶磁の様式変遷図