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有田の陶磁史(53)

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前回まで、祥瑞磁器創始説についてお話ししてきました。今日ではすでにそんな説があったことすらほとんど忘れ去られていますが、江戸時代にはバリバリの定説で、明治になって朝鮮陶工説が語られるようになってもその粘りは相当なもので、右を押せば左が出っ張る、上を押せば下が飛び出すみたいな感じで、新説や珍説も噴出して、風船の空気を抜くようには素直にしぼんでくれませんでした。

その大きな原因の一つが、この祥瑞説がどこから出てきたものかは分からないものの、逆にいったん定着したものを否定するには、それだけの材料が必要です。でも、その決定的な材料がなかなかないのです。そのため、ついに祥瑞を陶工ではなくしてしまった北島似水みたいなパワープレーもあるものの、全体的な傾向としては、まず、有田と祥瑞を切り離し、そして、泉山の発見による朝鮮陶工による磁器の創始を強調することによって、祥瑞を忘れさせる作戦に出たってところでしょうか。ちょっと姑息なような気もしますが、まあ、ネタがないのでしょうがないですね。

ということで、最近祥瑞による磁器創始説に関するいろんな著作を調べていたら、よくまとめられているものを見つけました。昭和19年(1944)、水町和三郎著の『伊万里染付大皿の研究』で、この祥瑞説のまとめの意味を込めて、これからちょっとこの内容をご紹介してみたいと思います。ちなみに、水町和三郎氏についてはご存じの方も多いかと思いますが、佐賀市出身の陶磁研究家で、国立陶磁器試験所や京都国立博物館などに在籍されたほか、国の文化財保護委員会専門委員や日本工芸会評議員なども務められました。

水町氏は、従来の祥瑞に関する一般的常識は、これを大体次の3期に分けて考えることができると言います。「第1期祥瑞観」は明治13、14年頃までの定説、「第2期祥瑞観」は明治13年、例の久米邦武の『有田皿山創業調子』の記述を起源とするもの、「第3期祥瑞観」は、昭和6年~9年に渡って発表された石割松太郎の新祥瑞研究によるものとしています。(旧字体は新字体に変更します)

第1期は、寛政12年(1800)中川中良著『桂林漫録』、文化3年(1806)稲垣休叟著『茶道筌蹄』、文政13年(1830)喜多村信節著『嬉遊笑覧』、天保10年(1839)吉備仁科著『隣交徴書』、嘉永7年(1854)田内米三郎著『陶器考』、安政2年(1855)田内米三郎著『陶器考付録』、安政4年(1857)金森得水著『本朝陶器攷証』、明治10年(1877)蜷川式胤著『観古図説』、その他竹川竹斉説、老樗軒説など、主に江戸時代の著作を紹介されています。そして、「「伊勢国松坂の住人伊藤五郎太夫祥瑞は永正年間京都東福寺の桂梧禅師に従ひて明に渡り、彼の地の磁器製法を修得して同十年に日本に帰り、肥前に於てその磁法を伝へた」と左記諸文献の記事を大体信憑している。」と記していますが、これはこのシリーズでもご紹介した10年(1877)の『工芸志料』の記述とほぼ同じで、すでにお話ししてきたところです。

ただ、これらの中で、ちょっと気になる内容をご紹介しておこうかと思ったのですが、長くなるのでまた次回にします。(村)H30.8.31

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