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有田の陶磁史(54)

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前回ご紹介した昭和19年(1944)、水町和三郎著の『伊万里染付大皿の研究』では、祥瑞磁器創始説観を時期別に3期に分けて、その中で明治13、14年頃までの定説とされる「第1期祥瑞観」についてご紹介しているところでした。今回は、その第1期の文献の中から、ちょっと気になる内容をご紹介しておきたいと思います。

まず、安政2年(1855)田内米三郎著『陶器考付録』では、祥瑞は「(前略)明国ニ渡リテ呉州ニテ焼物ヲ習フ 青花白地ノ法ヲツタヘテ帰ル 五郎太夫呉祥瑞造ノ字アルモノ呉ニテ焼トコロ也。(中略)五郎太夫帰朝ノ後火侯ヲ験スルニ伊萬里ノ近所ナル有田皿山ノ地火侯烈ニシテ染付ニ合ヲ以テ同所ニテ焼モノヲ始ムトイフ」とあり、「五良大甫呉祥瑞造」などの銘のあるものは中国で作ったものだとし、日本の土は軟らかくて、年数が経つと古びて見栄えが悪くなるので、あえて銘を入れなかったんだと言います。祥瑞のプライドだって解釈したんですかね?当時のことなので、いわゆる初期伊万里と比べたんでしょうけど、別に年数が経ったから古びて見えるわけじゃなくて、主因はまだ技術的につたないからなんですけどね。別にそれに銘を入れないのは、初期伊万里のルールであって、陶工のプライドとは無縁だと思うんですが?それから、堂々と帰国後は有田で作ったことにしてしまっていて、これが明治だと大騒ぎになるところですが、そこは第1期、江戸時代には、まだ朝鮮陶工説自体がないので、特に問題にはなっていません。

こんなおもしろい説もあります。文化3年(1806)稲垣休叟著『茶道筌蹄』の訂正版の記事ですが、「祥瑞は地名なり、唐音にてチアンスエンの転語なりと云、五郎太甫は生国伊勢飯高郡大口村の産にて伊藤五郎太夫の次男なり、(中略)明末祥瑞に渡り、焼物をなし、其後帰朝す、(中略)五郎太甫呉祥瑞造、此如く文字あるは、五郎太甫焼なり、文字なきは只祥瑞焼なり、」とあります。

ついに、祥瑞を地名にしちゃいましたか?いや、当時から五郎太夫の別名説のほか、作品名説などと並んで、地名説もなくはなかったみたいですけどね。それにしても、もう少し親切に場所を説明してくれないと、「チアンスエン」と言われてもどこだかさっぱり?ついでに、地名の話しで思い出しましたが、以前、北島似水の『日本陶磁器史論』でご紹介した時には、たしか祥瑞が行ったのは「湖南」ってしてましたよね。何の関係があるの?ってとこでしたが、次々回の追記で、もしや長沙窯のコバルトがらみではと、勝手に妄想してしまいました。まっ、間違いなく妄想ですけどね。ところが、上記の『陶器考付録』では、明の呉州ってことになってます。呉州って、例の三国志に出てくる孫権が建てた呉のあたりってことでしょうか。もちろん、時代はまるで違いますが、そうなると、長江流域あたりですから、場所的には、景徳鎮あたりも関係なくはないですね。そうそう、どこかの著書で、「江南」に行った説もありましたよ。江南なら景徳鎮もありでしょう。「江南」、「湖南」、当時は口伝が主でしょうから、「江南」が「湖南」に聞こえても別に不思議ではないような?

話しが少し脱線してしまいましたが、ただ、『茶道筌蹄』の訂正版でおもしろいのは、別の部分です。この方、ついに、ついに、五郎太甫と五郎太夫を父子とし、別人にしてしまいました。高原五郎七と五郎八についても以前お話ししましたが、この時代の話しは、とにかくこんな「甫」と「夫」、「七」と「八」の違いで、すぐに別人物にしてしまったり、重箱の隅どころか重箱の隅を顕微鏡で覗いたくらい、やたらと妄想が走ります。やっぱり、こんなのも口伝の弊害といったところかもしれませんね。まあ、よく思いついたもんです。そこまで複雑にしなくていいのに…。ほとほと感心します。そして、銘を入れたのが五郎太甫の自作で、銘を入れないのは普通の祥瑞焼だと言います。作家の作と工房作みたいなもんでしょうかね?でも、ちょっと見落としてしまいそうですが、「明末祥瑞に渡り」ってところは、当時、一般的には永正10年(1513)に帰国したとされてますので、思い切った説ですね。当時、すでに祥瑞を明末の製品だと考えていたんでしょうか?そうならば、すごいですが。(村)H30.9.7

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