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有田の陶磁史(247)

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 前回までで、ようやく様式変遷のカラクリについての話が終わりました。たしか“古九谷様式”の話をするってところで脱線していたと思いますが、ずいぶん前のことですので、いったい何の話から“古九谷様式”の話をすることになったんだったか、とんと思い出せません…。

 でも、かすかな記憶では、正保4年(1647)に江戸の佐賀藩邸より、寛永14年(1637)に引き続き、山が荒れるので、陶工を追放しろって命令が下り、佐賀城では運上銀を引き上げることによって許してもらおうと陶工達を説き伏せようとするものの、なかなかうまくいかず…。そして、最後は当時横目として現地を監督していた山本神右衛門重澄さんを初代皿屋代官に任命して、一任したって話だったような…?

 その前の交渉で、山本さんは、35貫目だった運上銀を66貫990匁と、ほぼ倍増させる案を提示して窯焼き達を説き伏せようとしたものの、半分の陶工は応じたけど、残り半分はなら陶工やめてもえ~わって帰っちゃったんでした。そして、皿屋代官になった山本さんは、どこにも書いてないのでどうやって説き伏せたのかは分からないけど、翌慶安元年(1648)には何と予定を大きく上回る77貫688匁も運上銀を取り立てたって話でした。

 そうそう思い出しました。寛永14年(1637)の窯場の整理・統合の頃には運上銀は2貫100匁で、これは日本銀行金融研究所貨幣博物館のHPに掲載されている江戸初期の金1両約10万円前後という計算でいけば420万円に過ぎなかったけど、10年後には77貫688匁ですから、1億5,537万6,000円ということになり、こりゃ、藩も窯業を産業として公認するはずだわって話をしてたはずでした。

 それで、やり手の山本さんは、いったいどんな策を考えついて、窯業が儲かるようにしたのかはどこにも書いてないけど、たぶん推察するに、利ざやの稼げる最新様式の普及と海外輸出、それから江戸の需要層の開拓じゃないかなってことでした。そして、この最新様式というのが、つまり“古九谷様式”だってことで、じゃ、次から“古九谷様式”とは何ぞやという流れになっていたような…。

 これにもたしか触れてましたが、突き詰めれば、“古九谷様式”とは、つまり、景徳鎮磁器と同様なものを作るための様式というか技術で、よく色絵製作の技術だと勘違いされてますが、色絵はそこに含まれる技法の一つに過ぎないってことです。

 ついに、何で“古九谷様式”を説明することにしてたか思い出しましたが、それについてお話ししてたら、予定分量に達してしまいましたので、具体的には次回からということで。(村)

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