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有田の陶磁史(55)

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前回、昭和19年(1944)、水町和三郎著の『伊万里染付大皿の研究』では、祥瑞磁器創始説観を時期別に3期に分けて、その中で明治13、14年頃までの定説とされる「第1期祥瑞観」についてご紹介しているところでした。今回は、「第2期祥瑞観」の中から、気になる部分をご紹介してみたいと思います。

 

この2期ですが、次のように記されます。「明治十三年鍋島家の陶業調書によりて第一期祥瑞観に大変革を来たし、爾来該調書は陶磁史家の通説を支配するに至った。之が第二期祥瑞観である。」とします。この鍋島家の陶業調書というのが以前ご紹介した久米邦武著の『有田皿山創業調子』で、例の東京日々新聞の誤謬を正すとしたやつです。

 

画期として設定されているということは、それだけ当時社会的なインパクトが強かったんでしょうね。祥瑞と朝鮮陶工の優劣逆転の契機と捉えられるかもしれません。その内容についてはすでにご紹介したところですので、ここでは、水町氏がまとめられた、この説の要約について、記しておきたいと思います。

 

一、祥瑞の帰朝年度(永正十年)と肥前磁器創始年度(元和二年)とは約百年の隔りがある。

一、祥瑞に関しては藩史は勿論、該地の口碑伝説にも伝えられて居ない。

一、肥前有田の地は磁器創始の元和初年頃に於てすら僅かに樵夫の行来する極めて辺鄙渓谷であったのに百年を遡る永正時代に他国人の祥瑞が此処へ来て陶業を営む訳なし。

 

「以上の理由で鍋島調書は祥瑞と肥前磁器創始との関係を断乎として非認したので祥瑞は完全に日本陶磁器史より抹殺されるに至った。」ということです。

 

たしかに、それまで明治になっても腫れ物に触るように、本当はウソだと思うんだけどな~なんて思いながらも、真っ向から祥瑞説を否定することもなかった時代ですので、インパクトは十分だったかもしれません。ただ、よくよく根拠を見ると、具体的な証拠と言えるようなものは何もなく、状況証拠の寄せ集め感は否めませんね。大声出したもん勝ちみたいところがヒシヒシと。何度か言ってますが、ようするに、祥瑞と有田を切り離して、祥瑞を黙殺しようとしたってことでしょ。

 

そこで、その後、例の北島似水さんのような、ありもしない証拠を根拠に、空想に妄想を重ねて、暴走するような論を展開されますが、ある意味、あれこそ、真偽は別として、水町氏の言う「祥瑞は完全に日本陶磁史より抹殺されるに至った。」って断言にピッタリだとは思うですけどね。

 

余談ですが、先ほどの水町氏がまとめた要約文の中に肥前磁器創始年度として「元和二年」の年号が出てきますが、これは、『伊万里染付大皿の研究』の刊行が昭和19年(1944)だからでしょうね。まだ明治では、その下の文にある「磁器創始の元和初年頃」というのが精一杯だったはずです。

 

つづいて昭和6~9年頃の第3期祥瑞観についても見ていきたいのですが、これって、祥瑞最後の打ち上げ花火的な要素がプンプンで、いわば、北島似水の逆バージョンみたいなもんのようです。続けてお話ししたいところですが、朝鮮陶工説やら、その他さまざまな基礎知識が必要ですので、とりあえず、ある程度昭和の朝鮮陶工説がご理解いただけた頃にご説明いたしたいと思います。(村)

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