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有田の陶磁史(248)

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 前回は、ずっと前に“古九谷様式”についてお話しするようになった経緯について振り返っていました。さて、今日からは本題に入ります。

 前回も触れましたが、“古九谷様式”とは、つまり、景徳鎮磁器と同様な製品を作るための技術です。そもそもそれが求められたのは、1644年の明から清への王朝交代の混乱により、隠れてゴソゴソと輸出はやってたみたいですが、景徳鎮をはじめとする中国磁器の輸出がほとんどできなくなったからです。そりゃ、チャンス到来ってとこでしょ。また、輸出と言えば、東南アジアやヨーロッパなどを連想されると思いますが、視点を変えれば、日本への輸入も途絶えたということですから、国内の従来の中国磁器の需要部分にも、ポッカリ穴が開いてる状態なわけです。今まで、まったく歯が立たなかった老舗大企業が、勝手に自分でコケてくれたわけですからね。あの切れ者の山本神右衛門重澄さんが、それを見逃すはずがないでしょう。

 まあ、最初から山本さんが糸を引いていたかどうかは分かりませんが、『酒井田柿右衛門文書』にある「赤絵初リ」の「覚」には、詳しくはまた後日お話ししますが、前に触れたことのある陶商の東島徳左衛門が、長崎の「志いくわん」という唐人から色絵の技術を伝授されて、それを初代柿右衛門である喜三右衛門に依頼して作らせたみたいなことが記されています。そして、「かりあん」船(ポルトガルのガレー船:軍船)が長崎にやってきた年、つまり正保4年(1647)に、完成した「赤絵物」をはじめて長崎に持参し、「かうじ町(麹町)」の「八観」という唐人の所に寄宿し売ったと記します。赤絵、つまり色絵は、前に触れたように、“古九谷様式”の技術に含まれる技法の一つですので、この年以前、とは言っても、技法が完成してから長く寝かせておくとも考えられませんので、その頃に完成したと考えていいと思います。と言うことですが、まずは、東島徳左衛門が喜三右衛門に作らせたってとこがミソです。

 以前、東島徳左衛門については触れましたが、この人を重用して大坂商人と交渉させ、寛永19年(1642)と20年に山請けをさせたのが山本さんでした。つまり二人は以前から懇意の仲です。ですから、この喜三右衛門が赤絵に成功したことも、山本さんが知らないわけがありません。あるいは、「志いくわん」に会いにいく時から、すでに組んでいたのかもしれませんね。それに、喜三右衛門が中国人である「八観」なんて、直接知り合いだった可能性も低いように思いますので、これも徳左衛門の仲介だったと考える方が自然でしょう。

 それから、長崎で売ったのが正保4年(1647)ってとこもクサイですねエ。って何がってとこでしょうが、それについてはまた次回。(村)

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