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有田の陶磁史(57)

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前回は、明治時代の朝鮮陶工磁器創始説の基本となる、明治11年(1878)初刊の黒川真頼『工芸志料』の内容についてお話ししました。かつての通説風にまとめると、「李参平は、泉山で陶石を発見し、磁器をはじめた」という内容になり、まだ元和2年も天狗谷窯も登場しませんし、先に祥瑞がいますので、厳密に言えば、磁器の創始者でもありません。泉山の陶石を使ってはじめて磁器を完成させたって位置付けですね。

これと同じ、明治10年代の史料に江越礼太と徳見知愛の共作とされる『皿山風土記』という詩があります。皿山の成立から明治までの比類なき歴史を小学生に伝えるために詠んだもので、201行にも及ぶものです。ちなみに、江越礼太は佐賀藩の支藩であった旧小城藩士で、江戸の昌平黌にも学んだ教育者で、明治5年に白川小学校ができた時、その責任者として迎えられています。徳見知愛も旧小城藩士で、明治には有田周辺の第5大区第12小区の戸長を務め、涵養小学校(有田町山谷)校長なども歴任しています。この詩は、文中に「明治十二」の文字が見えるので、それより後であることは間違いありません。また、「それ長崎の県廳を」という書き出しではじまるので、有田が佐賀県に復帰した明治16年以前だということも分かります。だいたい、10年代前半ってとこでしょうか。

この詩では、朝鮮陶工について、以下のように記します。

「其後慶長年中に 朝鮮攻の帰陣の時 連帰られし韓人の 金ヶ江村の李参平 小城郡多久に居住して 焼物造り始めしに 宜しき土のあらざれば 家を移して此郷の 曲川なる乱橋 此處へ来りて遠近と たどり歩きて見出しし 其石土の比類なき たから有田の泉山 このごろまでは皿山も 木陰小暗き山手にて 田中の村といひしとぞ 金ヶ江氏を始めとし 百田深海岩尾など 皆韓人の末ぞかし」

地元で作られた詩なので、「百田」、「深海」、「岩尾」など有田の方ならおなじみですが、きっとほかではそれ誰っていうようなローカルな名前も出てきたり。ただ、内容的には『工芸志料』とほぼ同様で、まだ元和2年も出てきませんし、天狗谷窯にも触れられていません。つまり、明治10年代前半頃は、祥瑞は祥瑞、朝鮮陶工は朝鮮陶工という感じで、まだ両説が独立して併存するのが主流の捉え方で、積極的にそれらの整合性を図るようなことはなかったのかもしれません。あえて言えば、以前お話しした明治13年の『東京日々新聞』のように、祥瑞説を従来どおり疑っていないものと、『工芸志料』のように疑ってはいるものの、否定する材料もないため、そのまま併記しているものの違いはありますが。

では、この『皿山風土記』はどうかと言えば、以下のように記します。

「永正頃の其むかし 五郎太夫祥瑞とて 伊勢の人とも支那人とも 云ふは慥(たしか)に知らねども 支那の陶器の製造を 習ひ覚えて此郷の 善き其土を発見し 餘多の品を造りたる 古雅高等の染附は 世に比類なき器なり」

まるで疑ってない派ですね。さらに特徴的なのは、『工芸志料』では帰国した祥瑞は磁器の製法を「肥前唐津等」の工人に伝えたことにしたのに対して、さらに踏み込んで、有田で、しかも良土を発見して染付磁器を作ったことにしている点です。もちろん、中央の学者であった黒川真頼にとっては唐津も有田も意識的には同じようなもんだったかもしれませんが、有田でずばり良土発見を発表するには、やはりそれなりの覚悟は必要です。当然、有田で良土発見と言えば、泉山の発見を想像しますので。これでは、磁器の始祖は祥瑞だが、その後朝鮮陶工によって泉山で新たに良質な原料が発見されたことにより再び磁器が創始された、という一応の落とし所さえも崩れてしまいますので。

かくして、かの『東京日々新聞』に対する『有田皿山創業調子』と同じように、この『皿山風土記』に対抗するものが現れるのですが、それについてはまた次回。(村)H30.10.5

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