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有田の陶磁史(58)

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前回は、江越礼太と徳見知愛による『皿山風土記』に記された、磁器創始説ついてお話ししていました。祥瑞説と朝鮮陶工説が併記されるのは当時の一般的な捉え方でしたが、ちょっと勢いが付きすぎて、祥瑞の泉山発見まで匂わせるような内容になっていました。これは、朝鮮陶工説に傾きつつあった地元では、なかなか看過できることではなかったでしょう。特に小学生に読ませるために作った詩ですし。

そこで、『改作皿山風土記』なるものが作られたのです。作者は横尾謙という有田出身の人です。幼少より谷口藍田に師事し、明治には兵庫県庁に勤めていましたが、同16年(1883)頃帰郷し、後に『有田陶業史』、『日本陶器史』なども著しています。いつ改作したのかは不明ですが、昭和11年刊の『肥前陶磁史考』の記述によれば、帰郷後、明治19年以前のようで、つまり、16~19年の間ということになります。

内容的には、出だしの「長崎県廳」が「佐賀県廳」になったり、人口や戸数など数値の修正などもありますが、何と言っても、祥瑞関係の内容をすべて取り払ってしまったことです。つまり、磁器の創始は、朝鮮陶工説のみが記されます。

「むかし文禄慶長の 朝鮮陣の其時に まつろひ来つる韓人の 金ヶ江村の李参平 小城の郡の多久村に 焼物造り始めしに 良しき土あらざれば 移りし有田の乱れ橋 漸く谷間にさかのぼり 今の有田の地に来り 始めて得しはいつまでも 尽せぬ石の泉山 其頃有田は深山にて 田中村てふ称へあり 其後追々人民も つどひ来りて月に日に 今の繁華となしつらむ 百田深海岩尾など みな韓人の末ぞかし」

朝鮮陶工説の部分は内容的には『皿山風土記』とほぼ同じなのに、あえてあちこち微妙に表現を変えています。「百田深海岩尾」まで同じなのに、よほど腹に据えかねたんでしょうか。この改作を出した理由としては、「然るに此風土記作者たる徳見知愛も、協力者たる江越礼太も、其頃小城藩より移住せし人とて、元来此地の陶史に精しからず、多少の誤謬は止むを得ざるも、就中祥瑞を此處の陶祖となし、且有田の磁石は、李参平以前既に祥瑞なる者に依って、発見されし如くつくられてある。」としているので、同じ佐賀県内とは言え、やはり地元の有田では祥瑞に対する拒絶反応はより強かったんだと思います。

これは、単に祥瑞に関わる部分を削除しただけと言えばそれまでですが、この時期にしては、ある意味画期的です。結果的に祥瑞を抹殺して、朝鮮陶工が磁器を創始したことにしてしまったんですから。いや、これに限らず、その当時すでに有田の中では、そういう認識が芽生えていたのかもしれませんが。祥瑞説を否定した『有田皿山創業調子』の記事も、ちょうど同じような頃に書かれたものですし。ただ、残念ながら『肥前陶磁史考』の中では、「蓋し此改作を知る者は稀であった。」としているので、『皿山風土記』の普及を妨げる程度の効果はあったかもしれませんが、それに代わるまでには至らなかったようです。(村)H30.10.19

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