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有田の陶磁史(59)

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前回までに、明治10年代の朝鮮陶工というか李参平磁器創始説に関して、『工芸志料』や『皿山風土記』、『改作皿山風土記』などから見てきました。引き続き、最終的に明治20年(1887)頃に書かれたと思われる久米邦武の『有田皿山創業調子』の中から、明治10年代頃の説の状況について探ってみたいと思います。

まず東京日々新聞の祥瑞説の否定を行った「明治十三年相調東京差越候控」では、(*以下、カタカナはかなに旧字体は新字体に変えます)「松浦郡大川内有田の陶器創業は直茂公朝鮮御帰陣の時日本の宝に可被成と焼物上手頭立候者六七人被召連佐賀郡金立山の麓に召置れ焼物仕候」、「慶長の末松浦郡藤の川内へ相移さる夫れより日本人見習ひ伊万里有田方々に成立候由 元和の始なり」とあります。この中には、李参平も出てきませんし、明らかに今までご紹介したものとは違う文献を元ネタにしていることが分かります。

実は、これは『山本神右衛門重澄年譜』の記述を元にしており、こちらの方は有田皿山について書かれたものですが、なぜか大川内の創業も加わっています。これは後ろに加えられている一文で「郷村帳に松浦郡に藤の川内という地名がないため、今の大川内山を昔は藤の川内と称したものか」という理由だということが分かります。つまり藤の川内に関する記述も含まれるため、最初に大川内も加えたわけです。でも、「えっ?この人、マジで藤の川内も知らずに陶磁史書いてるの?」って感じではありますね。もちろん、同じ伊万里だとは言え、藤の川内と大川内はまったく違う場所です。しかし、「明治十四年九月久米邦武帰県に付再調にて遣候控」では、「藤の川内は松浦山形村の内字にて…」と何事もなかったように記されてますので、きっと再調査の際に誰かに教えられたんでしょうね。

また、元ネタの方では元和にはじまったという記述はありませんが、これについては、「元和の年号は焼物高麗人金ヶ江三兵衛承応(原本では「應永」という室町時代の年号になっている)二年巳四月差出書による」とあり、以前ご紹介した初代金ヶ江が多久家に提出した文書の写しが、すでに知られていたことが分かります。また、伊万里や有田の方々に窯業が成立したのが元和のはじめ頃としており、まだ磁器のはじまりを元和に比定しているわけではありませんでした。

ただ、先ほどの再調査の記事では、また微妙な言い回しが現れます。「藤の川内より伝して有田郷に移りしは元和の此 和泉山の磁石を発見せしに起こると伝」。つまり、藤の川内より陶工が有田に移り住んだのが元和の頃。これは泉山の磁石を発見したから起こったと伝えられるというのです。ついに言っちゃいましたね。磁石が発見されたから有田に陶工が移り住んだ。つまり、遅くとも元和には磁器がはじまっていたと言ってるのも同じです。

この『有田皿山創業調子』のもっと後に書いた記事と思われるものでは少し内容が異なってきますが、少なくともこの明治14年あたりの時点では、この方が元ネタにしたのは『山本神右衛門重澄年譜』と『皿山金ヶ江三兵衛高麗より罷越候書立』みたいで、まだ『金ヶ江家文書』はご覧になってないようですね。そのため、今まで触れてきた著作類とはちょっと内容が違っています。(村)H30.10.26

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