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有田の陶磁史(60)

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これまでにいくつかの文献をご紹介して、明治10年代頃に、祥瑞磁器創始説が否定されはじめ、朝鮮陶工説がクローズアップされてきたことをお話ししました。ただ、以前ご紹介したように、ほとんどと言うか、まるでイチャモンみたいなもんとはいえ、祥瑞の否定に明確な理由が付くのはもう少し後のことで、この頃はまだ朝鮮陶工との間に時期が空きすぎているから直接の繋がりはないとか、主に有田磁器の祖とすることを否定するものでした。

一方、当時の朝鮮陶工説は、『山本神右衛門重澄年譜』の記述以外は、内容的にはストーリーがどれもほぼ同じで、同じ史料を元に組み立てられていることが分かります。各著に名前が見られる李参平こと金ヶ江三兵衛について記される史料は、『多久家文書』か『金ヶ江家文書』ですので、その両方か、またはどちらかが元になっていることは確実です。ただ、詳しいことは知りませんが、あくまでも活字化されてよく知られているものとしては、『多久家文書』には、「参平」の名は出てこなかったような気はします。

それはそうと、あらためてこの時期にすでに「李参平」の名前が当然のように使われているのはちょっとビックリですね。実は、この李参平という名前の記述は、『多久家文書』にも『金ヶ江家文書』にもありません。どなたが書かれたものか知りませんが、ネット上のWikipediaの「李参平」の項目では、「明治19年になって地元の蘭学者谷口藍田が名づけたものであり」と記されており、確かにそんな話しをどこかで見聞きしたことがあるような気もしますが、残念ながら出典を思い出せません。でも、明治10年(1877)の黒川真頼『工芸志料』にはすでにその名が見られますし、紹介した明治10年代のいくつかの史料も同様ですので、少なくとも明治19年に発案されたものということはなさそうです。

いずれにしても、この「李参平」という氏名は、まったく別々の文書に記された「李」という名字と「参平」という名前を組み合わせたものですから、実際に朝鮮名が「李参平」だった人がいたかどうかは分かりませんというか、たぶんいなかったでしょうね。たとえば、『金ヶ江家文書』では、「我々名字、最前高麗ニ而相名乗候ハ李名に而御座候」とか、「右之者共申上候は、弐人は農業仕由、其内参平と申唐人申上候は、我は土を穿、陶器を仕立候由申上候」みたいな感じで、異なる文書に記されます。もちろん、『多久家文書』でも『金ヶ江家文書』でも「右之者李氏ニ而御座候得共、金ヶ江島之者ニ付 在名を相唱、金ヶ江三兵衛と被 召成候」や「元祖金ヶ江三兵衛と申者」など金ヶ江三兵衛の名前が基本です。つまり、いうなれば「金ヶ江三兵衛」という人は実在しても、「李参平」という人はいなかったということになるでしょうか。ですから、自分で文章を書く場合には、「李参平」名は積極的には使わないのですが、いかんせんこっちの呼び名の方がはるかに普及しているもんですから、ちょっと悩ましいところです。(村)H30.11.2

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