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有田の陶磁史(61)

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久米邦武著『有田皿山創業調子』は、おそらく明治20年頃かその少し後くらいにまとめられたものだと思いますが、記事自体は、明治10年代に徐々に加えられています。これまで、その中で明治13年(1880)と14年の記事についてご紹介しましたが、それらよりも遅く、おそらく明治20年前後頃に書かれたと思われる「有田陶器沿革史」では、これまでとは、少し内容が違ってきます。(例によって、カタカナはひらがなに、旧字体は新字体で表記します。)

まずは、以前と同じように金立山に置かれた朝鮮陶工に触れますが、「其子孫今考えふる所なし」として、さらりと流します。そして、「小城郡多久に在る者 李氏三平と云ふ(中略)後に有田郷字乱橋に移る(中略)其乱橋に在る所の李氏三平なる者渓に沿ヒ遡りて字白川に於て陶窯を築き磁器を製す 今考ふるに其薪水に便なるを以て移るものの如し」とします。「今考ふるに」なんて別にもったいぶらなくとも、『金ヶ江家文書』に、ズバリ「第一水木宜故、最初は白川天狗谷に釜を立」って書いてあるんですけどね。

しかし、この方も本当に罪作りです。先ほどの『金ヶ江家文書』は、文化4年(1807)と考えられている「乍恐某先祖之由緒を以御訴訟申上口上覚」ですが、三兵衛が段々見廻って、泉山で陶器土を発見したので、「第一水木宜故」って続いて白川天狗谷に窯を築いたって書いてあるのに、わざわざ泉山の部分を抜いて、しかも白川で磁器を作ったことにしています。良心的に解釈すれば、あるいは当然だから書かなかったとも考えられますが、いや、その後に続く文章を見ると、かなり確信犯のような気もするんですが。

「又字板川内村に於て窯を築く 百間釜と云其跡存在して今にあり 此我泉山の磁砿を発見し始て白磁を製する所とす(中略)而て其地極て避遠なるを以て後に字小樽に磁窯を移し之を新窯と云う」

これって、まるで百間窯が泉山の陶石を発見して、はじめて磁器を作ったところって読めませんか?じゃ、白川で磁器を製したというのは、原料はどうしたのって突っ込みたくもなります。実はこの内容も同じ『金ヶ江家文書』の続きにあり、皿山が段々栄えた後、「其内上幸平山中樽奧江も百軒程之釜登相立候処、余り片付候場故相止、其後は村々所々江釜を移し申たる由」とあります。小樽窯は中樽にあり、その奧に当たるのが百間窯です。つまり、原文を見れば誰がどう解釈しようが、明らかに白川天狗谷の後の話しなんです。

「参平」という名称が出てくるのもこの文書ですし、同じく「三平」という書き方も出てきますので、これまでご紹介したいくつかの著作が、この文書の内容をベースとしているのは間違いないと思います。ただ、やっとここで白川の地名は出てきましたが、共通して天狗谷窯も出てきませんし、百間窯の記述内容もテキトーに作っていたりするので、この頃の方々は、ほぼ『金ヶ江家文書』の原文は見ておらず、ちまたで流布していた話しを聞き書きした可能性は高いんじゃないでしょうか。だから、同じ原文を元にしても、それぞれ微妙なところが違っていたりします。

ただ、こうやってテキトーなことを記すため、この後の方々の妄想が妄想を呼ぶ自体を招いてしまうことになってしまうのです。何しろ、後には、祥瑞が山内町宮野(武雄市)で磁器をはじめたことにしてしまった、あの北島似水が控えてることですしね。(村)H30.11.9

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