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有田の陶磁史(62)

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これまで明治10年代から20年前後頃までの著作について、朝鮮陶工磁器創始説に関する内容をお話ししてきました。少し煩雑になってきましたので、とりあえず、ここまでの流れを、少しまとめておきたいと思います。

この頃の磁器創始説の大きな特徴は、ほぼ例外なく、「祥瑞五郎太夫」説と「朝鮮陶工・李参平」説が併記されることです。まず、永正10年(1513)に中国から帰国した祥瑞が磁器を創始し、その後、慶長年間に朝鮮半島から連れ帰られた李参平らの陶工によって、泉山が発見されて磁器がはじめられた。よって、朝鮮陶工による磁器の開始は、正確には磁器の創始ではなく、泉山の原料を使った磁器の開発ということになります。この場合、祥瑞による磁器の創始は、原料について触れないか、中国から持ち帰った原料を用いてということになります。ただし、『皿山風土記』の場合は、有田の原料を使ったことにしたため、『改作皿山風土記』で噛みつかれ、はじめて祥瑞説をスパッと内容から削るということがおきました。この頃は、一般的には祥瑞説を積極的に否定する材料に乏しかったため、祥瑞と朝鮮陶工の間にかなり時期差があるという理由で、どちらかと言えば、それらを切り離すことによって、祥瑞のことは忘れさせようという姿勢が強く見られます。

朝鮮陶工説については、『山本神右衛門重澄年譜』に見られる金立山に召し置かれた陶工の話しも一部の著作で見られますが、通常は、李参平の事跡を主体に論が組み立てられていきます。この李参平磁器創始説については、わりと最近まで通説となっていましたが、その内容は、「李参平は、元和二年に、泉山で陶石を発見し、白川天狗谷に窯を築いて、日本初の磁器を創始した」というものです。ただ、この明治の前期までに、その源流はできあがっていましたが、まだ完成していたわけではありませんでした。「李参平は、泉山で陶石を発見し、磁器を創始した」という内容が一般的で、『有田皿山創業調子』の明治20年前後頃の記事と推測される「有田陶器沿革史」の中にようやく「白川」は現れるものの、元和2年創始も、天狗谷窯も現れません。

ただし、『有田皿山創業調子』などは、ビミョーな言い回しも散見され、元和のはじめ頃に磁器がはじまったとも取れるような記述や、天狗谷窯ではなく、百間窯で磁器が創始されたとも読めるような記述が見られます。この頃には、『山本神右衛門重澄年譜』や『多久家文書』の一部なども元ネタとして使用されていますが、説の主体をなす李参平に関する部分については、主に『金ヶ江家文書』の文化4年(1807)と考えられている「乍恐某先祖之由緒を以御訴訟申上口上覚」内容が使われていたものと推測されます。ただし、各説が微妙に違っていますし、先ほどお話ししたように、同じ文書に見える天狗谷などの記述は等しく抜けていますので、それぞれの著者が原本を直接見ていた可能性は低く、ちまたに流布していた話しを聞き書きしたものではないかと思います。(村)H30.11.16

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