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有田の陶磁史(249)

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 前回は、1644年に中国がコケタことで、磁器の海外輸出がほとんどできなくなり、日本にも入ってこなくなったって話をしました。これを、当時横目として有田一帯を統括していた、切れ者の山本神右衛門重澄さんが見逃すはずはなく、たとえば、もしや伊万里の陶商、東島徳左衛門さんとゴソゴソして、赤絵技法の開発の裏で糸を引いていたのでは?って話をしてました。そして、正保4年(1647)には、その完成した赤絵を、酒井田喜三右衛門が長崎に行って、はじめて売ったってことでした。本日はその続きです。

 そもそも事の発端は、正保4年の9月に、江戸の佐賀藩邸から陶工の追放命令がもたらされたことです。そして、それを免除してもらうために、運上銀の増額で対処しようと目論んだのです。ということは、構想としては頭の中にあったかもしれませんが、山本さんが運上銀の増額案を具体的な形にしたのは、それ以降ということになります。つまり、正保4年ももう遅い時期ですね。

 じゃあ、この頃に何があったかと言えば、同じ正保4年には、中国船によるおそらく有田磁器と推定される海外への輸出がはじまっています。「粗製の磁器174俵」ということですので、おそらく“初期伊万里様式”だと思われます。まあ、様式はどうでもいいですが、とりあえず、海外という市場が意識されはじめたというところが重要です。輸出の月までは知りませんが、少なくとも輸出の話が出てきたのは、9月の陶工追放命令よりは早かったんじゃないでしょうか。

 それから、正保4年に長崎で売ったという、酒井田喜三右衛門の開発した「赤絵」の話をしました。実は、色絵の技法を含む“古九谷様式”自体は、たぶんその数年前には完成しています。その上限は、1644年頃だと思います。つまり、“古九谷様式”として一括してますが、複数の別々の技術の集合体ってことです。詳しくは後日説明いたしますが、具体的には3つの技術だと思います。

 その最後に完成した“古九谷様式”が、喜三右衛門の開発した「赤絵」というわけです。だから、正確に言えば「色絵」=「赤絵」ではありません。「色絵」の一種として、「赤絵」があるってことです。そして、この「赤絵」が最後に完成した“古九谷様式”の色絵磁器で、かつ、17世紀後半に主体的に引き継がれた色絵技術だったので、有田では「色絵」ではなく、「赤絵」という名称が一般的になったと思われます。あっ、こんなこと有田の人でないと知らないでしょうね。いや、今どきだと、有田の人でも若い人は知らないかもしれません。でも遡ること30年くらい前までは、うっかり町なかで“色絵”なんて言おうもんなら、「有田に“色絵”はない。“赤絵”だっ!」って怒られてましたから。

 ということで、本日はこの辺までにしときます。(村)

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