いよいよ、明治36年(1903)初版の北島似水『日本陶磁器史論』の中から、朝鮮陶工磁器創始説の部分を見ていこうと思います。祥瑞説もそうでしたが、こちらもあまりに突拍子過ぎて、思わず唸ってしまいそうです。ただ、この著作が江戸期の古文書類のほか、『有田皿山創業調子』などを度々引用していちゃもんを付けているのと同様に、この後の著作では、この『日本陶磁器史論』を参考にしている珍説も多々ありますので、まったく触れないわけにもいきません。まあ、妄想としてはおもしろいですが、よくもここまで思いつくもんだと感心するのみ。とりあえず、明治頃の説としては、『有田皿山創業調子』が曖昧かつビミョーな表現で惑わして、『日本陶磁器史論』が混ぜ繰り返したってとこでしょうか。
まず、「肥前有田焼」項目として、朝鮮陶工の系譜について、以下のように記します。
一、松浦郡南川原地方
二、佐賀郡金立山字熊山
三、小城郡多久村
四、杵島郡武雄村字内田
この中で、一については、『酒井田柿右衛門家文書』の記述から、鍋島直茂が朝鮮国の南川元というところから連れ帰った高麗焼の職人・細工人・窯焚きに至るまで合わせて150人の内、75人を直茂の領内に連れ帰り、75人は南川原に窯を築いてやきものを焼いたという内容の記述に基づいています。二については、以前ご紹介した『山本神右衛門重澄年譜』に示された内容。三は『多久家文書』や『金ケ江家文書』にある李参平のこと。四は磁器創始とは直接関係ないので、これまで触れてきませんでしたが、有田の報恩寺の碑文に記された百婆仙(深海)一族のことを指しています。
ただ、この似水さん、やっかいなことにそれぞれの陶工の系譜みたいに、各種の古文書類をすべて信じてそれぞれが並列して起きたことのように物語を創作するかと思えば、古文書の内容を、「そう書かれているから、疑いようのない事実」だとか、「そうは書いてあるけど、誤りに違いない」とか、自説の都合で、節操なく上げたり下げたりするので、本当にやっかいこの上ありません。ただ、後の研究ではもう少し陶工の系譜も細分化はされますが、この似水によるものが原点となっていることは間違いないと思います。
それはともかく、『有田皿山創業調子』の中の「有田沿革史」が、「此時にあたり今の有田を田中村と称し深山幽谷にして僅かに松浦郡平戸より杵島郡の地方に通ずる道路あり」としていることに噛みついて、「当時の田中村決して今の有田にあらず」と切って捨てます。以前、祥瑞説をご紹介した時にも触れましたが、「田中村今の大谷より板野川内間の総称にあらざりしか」として、要するに、『金ヶ江家文書』に「中樽奧江も百軒程之釜登相立候」とありますが、どうしても板ノ川内を磁器の創始地にしたかったらしく、田中村の位置を山内町宮野(武雄市)あたりにしてしまっています。しかも、「人は李三平乱橋に来り製陶を試みしより南川原は起これりといふも吾人は非認す 巷説を真ならしめば彼は何の必要ありて更に板野川内に移りしか」として、李参平が乱橋に移住し製陶を試みたことによって南川原が起こったと世間では言われているとしますが、少なくとも活字化された当時の著作をあれこれめくっても、李参平が南川原の乱橋に移住して製陶に従事したとするだけで、それが南川原の窯業地としての起源とまでは断じてはないように思うんですが。それに、「乱橋(則ち清六の辻)」としていますが、「おいおい…?いくら三代橋に一番近いからって、とうとう李参平は清六ノ辻に窯を築いたことにしてしまったんかい?」って感じ。この新説は、後々の説の混乱の種まきには十分ってとこです。
さらに、ほとんどイチャモンに近い部類で苦笑してしまいますが、李参平が板ノ川内(百間窯)に移ったのは、南川原はすでに別系統の朝鮮陶工達によってあふれており、その抵抗に耐えられないのと薪や水が欠乏した結果によるものだと勝手に推測しています。何でも、先住者が主導するのは社会の原則、生存競争は人類の同種族では必ず起こるもので、社会の進化はそのようにして発展するんだそうです。相当理屈っぽいですが、そんな一般論を説かれても…?
引き続き、この強引な推測をさらに勝手に肥大化させるのですが、長くなりますので、また次回。(村)H30.11.30