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有田の陶磁史(64)

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前回に続き、明治36年(1903)初版の北島似水『日本陶磁器史論』の中から、朝鮮陶工磁器創始説の部分を見ていくことにします。前回は、李参平が乱橋に移り住んだものの、先住の朝鮮陶工の圧力に耐えきれず、薪や水も欠乏したので、やむなく板ノ川内の百間窯に移り住んだことになっていました。よくそんなこと思いついたなって感心しますが、人類の同種族による生存競争は、必ず起こるとまで明言されています。一方で、同じ頃に酒井田圓西(酒井田柿右衛門家の有田での祖)も南川原に来たけど、同種族以外、つまり日本人だったからいいんだとか…?ものすごい論理です。

ともかく、その後、李参平は板ノ川内で窯を築いて製陶を試みたけど、窯の破損の修繕は元来苦手なので、破損箇所を発見すると、別の場所に窯を築いたんだとか。しかし、いつから李参平一族は、窯の修理が苦手になったんですかね?百間窯周辺にいくつか古窯跡があることを根拠に、ここまで妄想するとは恐るべしです。

「飛んで火に入る夏の虫」と言ったとこでしょうが、以前お話ししたように、『有田皿山創業調子』では、李参平は白川に窯を築いて磁器を焼き、また、百間窯が泉山で陶石が発見されてはじめて磁器を焼いたところみたいな曖昧な表現がなされていました。これは普通考えても、「じゃ、白川の窯の磁器原料はどこから?」、あるいは有田の地元民なら、「泉山発見後、その原料で、最初は有田以外の百間窯で焼いたことにするとはけしからん!」ってことになるんじゃないでしょうか?何しろ有田出身の似水さんのことですし…。ところが、これについては、案の定「図らずしも吾人の説と衝突せり」ときたものの、似水さんはもっと上手(うわて)でした。百間窯が泉山発見後最初に磁器を焼いた窯なのに、それ以前に白川で磁器が焼けているはずがない、白磁鉱発見後に白川の窯はできたんだとして、『金ヶ江家文書』(原文では、「金江三平の旧記」)にそう書いてあるから正しいと力説します。

確かに『金ヶ江家文書』には、泉山発見後に最初は白川天狗谷に窯を築いたことが記されていますので、珍しく(?)正論と言えば正論です。でも、そこからが似水さんの本領発揮でした。よせばいいのに、『金ヶ江家文書』では百間窯が白川窯の後に築かれたとしているとして、揚げ足取りがはじまったのです。「文政年間にありて元和の記録をなす時に誤謬なしとは保すべらかず」と言って、後世の記録だから誤りがないとは限らないでしょって自説の正当化に努めたのです。でも、だったら、先ほどの正当性を力説した白川の窯は泉山発見後に築かれたって部分もそうかもしれないって、この人は考えないんですかね?何とも、本当にお得な性格のようで。(村)H30.12.7

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