126年前の明治25年(1892)12月11日、最後の皿山代官で初代(後は続きませんでしたが)皿山郡令となった百武作十がなくなりました。行年73歳。「肥前陶磁史考」には名皿山代官と称された成松万兵衛の三男として、文政4年(1821)有田で生まれたとあります。
ということは成松代官の妻も有田に来ていたか、あるいは有田在住だったのか。よく言われるのは、代官やその下で働いていた取納役や他の役を勤めた侍は現在の佐賀市から単身で赴任し、数年過ごした後はまた佐賀に戻ったということですが、著者である浩氣さんは何かそのことを伝えるものを見たのかもしれません。
いずれにしても、その後、百武家に養子に出た作十は京都留守居役時代には薩摩藩の小松帯刀や各地の志士たちと交流し、佐賀に戻った後は川副代官を経て皿山代官として赴任したと「肥前陶磁史考」にあります。
前号の館報「季刊 皿山」でも作十の息子・百武兼行を紹介しましたが、名代官とうたわれた父親と画家として名を成した息子・百武兼行に挟まれた作十ではありますが、有田に尽くした功績は忘れてはならないと思います。百武家は現在も佐賀市金立に続いています。(尾)H30.12.10