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有田の陶磁史(66)

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前回までで、やっと明治時代が終わりました。7月からはじめたので、すでに約半年。長かったですね。自分でも、まさかこんなに引っ張るとは思いませんでした。ただ、ちょっと複雑だったと思うので、今回は、次に行く前に明治時代の磁器創始説について簡単にまとめておくことにします

まず、大きな特徴は、「祥瑞」と「李参平」ないしは朝鮮陶工が必ず併載されることです。江戸時代は、ほぼ「祥瑞」一辺倒だったので、これは大きな進歩と言えるでしょう。もちろん、「祥瑞」説に関しては、当時は疑っている人もまるっきり信じている人もいました。いや、そう記すと誤解されるかもしれませんね。正確に言えば、「祥瑞」の存在自体を疑っている人は知る限り皆無です。あくまでも、祥瑞が日本磁器の始祖であるかどうかという点です。

明治10年(1877)初刊の黒川真頼『工芸志料』などは、明治の中でもまだ古い時期の内容なので、新しく出てきた李参平説を、単純に従来の祥瑞説に足しただけって感じでした。さほど土地勘もなかったでしょうから、祥瑞は唐津あたりの工人に中国の技法を教えたことにしています。これで、有田を舞台とする李参平説とは一応矛盾しないわけですが、唐津と有田の違いがどれだけ認識されていたのやら?

次に、どうしても祥瑞を磁祖としたくない面々が苦しんだのが、(1)祥瑞が存在したことは疑い得ない事実、(2)実際に、祥瑞が製作した個人銘入りの製品が、世の中に伝世している、という点です。つまり、祥瑞という人が確かに存在し、しかも磁器を残しているということを否定できない限り、活動期間の関係で、どこまで行っても李参平が磁器を創始したことにはならないのです。

もっとも、『皿山風土記』のように、安易に祥瑞が有田の原料で最初に磁器を製作したなんて堂々と記すものもありましたが。ただ、これはすぐさま『改作皿山風土記』が現れたように、地元で反発があるのは当たり前でしょう。この詩の作者の方々は教育者で、歴史の研究者ってわけではないので、軽い気持ちで書いたんだとは思いますが。

そこで、久米邦武の場合は、苦肉の策を編み出しました。祥瑞は永正10年(1513)に中国から帰国して磁器をはじめますが、そこから朝鮮陶工が泉山を発見して磁器をはじめた元和(1615~24)までは100年くらいも間があります。よって、技術の継承はないので、縁もゆかりもない別の系統と捉えたのです。これが第一段階の有田と祥瑞の切り離し作戦です。

ただ、かと言ってこれで祥瑞の磁器創始自体を否定できるわけではないのがミソです。そこで第二段階。有田磁器の創始は、泉山の発見に起因することとして、いわば祥瑞ガン無視作戦に出たのです。触れなければ、そのうち忘れられるってことですね。これって姑息ですが、さりとてなかなか有効な策で、ジワジワと祥瑞が表舞台からは消える端緒となったのです。ただ、祥瑞説の方も持して葬り去られるのを待っていたわけではありません。最後の詰めで攻めあぐねる抹殺論者をよそに、後々お話ししますが新たな作戦を展開しました。ただ、相手は攻めあぐねているのに、最後は話しを盛りすぎて完全に自爆。ジ・エンド。

それから、この祥瑞ガン無視作戦とは別に、勇敢にも真っ向から勝負を挑んだ人もいました。そう、もはや真打ちとも呼べる、例の北島似水さんです。この方、もう完膚なきまでに祥瑞を叩きます。まずは、祥瑞と李参平の年代の差にとどまらず、祥瑞は中国製の原料を用いたことにしてしまいました。しかも、例の大好きな山内町(武雄市)宮野説を引っ張り出して、中国から日本に帰国した祥瑞を無理やりヒマにして宮野に逗留させて、ここで磁器を作らせてしまったのです。そして、あまりにもご無体な仕打ちですが、勝手に宮野で作らせといて、手のひら返したように有田で作ったんじゃないから、有田の祖じゃないってオチ。思わず、祥瑞に同情してしまいそうです…。ただ、それでも日本の磁祖という息の根が止められなかったため、あろう事か、最後は、とうとう祥瑞は陶工じゃなかったことにしてしまったのです。陶工でもないのに、さすがに磁祖にはなれませんからね。すごい作戦。

つまり、明治という時代は、ある意味江戸期の亡霊である祥瑞説を、あの手この手で潰しにかかった時期でした。ただ、どうしても正攻法ではたたくことができず、ガン無視作戦や陶工剥奪作戦など、なかなかのパワープレーが展開されたのです。

一方の、朝鮮陶工説の方ですが、当初はある面、『山本神右衛門重澄年譜』や『多久家文書』派と『金ヶ江家文書』派に分かれていました。しかし、段々それらが融合してというか、融合しきれずに、並列されるようになり、いくつかの朝鮮陶工の系統ができあがっていきました。まあ、これも似水さんにかかると、李参平ら多久系の工人が南川原系の工人に追い出されて板ノ川内で百間窯を築き、泉山を発見して磁器を創始したことになってしまうんですけどね。ただ、やっぱり地元有田では一定の有田寄りのバイアスがかかるのは否めませんから、『皿山風土記』じゃないですが、さすがに、これでは地元では定着しないでしょうね。

結局、「李参平が、泉山で陶石を発見し、日本磁器を創始した」というところまでは、明治時代に物語の祖型ができあがりました。文献によっては、「白川」の地名や「天狗谷」が記される原文の引用はありましたが、まだ、白川天狗谷窯で磁器がはじまったことにはなっていません。また、元和のはじめ頃の磁器の創始を匂わせるようなややフライング的な記述も見られるものの、通常は、年代的には「元和・寛永の頃」や「元和の頃」と考えられている状況でした。

ということで、次回からはやっと大正時代に移ります。(村)H30.12.21

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