前回まで、大正前期の磁器創始者説についてお話ししてきました。明治時代と大して変わらないことがお分かりいただけたかと思います。ただ、大正時代の続きですが、本日からは、ちょっと毛色が変わります。
大正7年(1919)刊行の日本陶磁器協会編の『日本陶磁器全書』(第6巻)、つまり、中央における磁器創始者説は、いわば膠着状態でしたが、その前年の大正6年に、地元の有田では大きな出来事がありました。陶祖李参平の三百年祭です。この記念事業の一つとして、「陶祖李参平之碑」が陶山神社裏手の蓮華石山の頂に建立されたのです。その碑文には、次のようにあります。ちょっと長文になりますが、朝鮮陶工説にとって、エポックとなる大切な記述になりますので、全文を引用します。
「我カ陶祖李参平氏ハ朝鮮忠清道金江ノ人ナリ。文禄元年豊公征韓ノ役ニ方リ我軍ノ為ニ尽瘁(じんすい)スル所尠(すくな)カラサリシカハ、慶長元年藩祖直茂公凱旋ノ際携ヘテ帰化セシメ参謀多久安順氏ニ属セシム、金江ノ人ナルヲ以て金ヶ江ノ姓ヲ冐、初メ小城郡多久村ニ住シ其成熟スル所ノ陶業ヲ創メシモ良土獲ス。元和年間松浦郡有田郷乱橋ニ来リテ陶業ニ従イ遂ニ泉山ニ於テ最良ノ磁石ヲ発見シ白川ニ移住シ初メテ純白ナル磁器ヲ製出ス、此レ実ニ本邦ニ於ケル白磁製造ノ嚆矢ナリ、爾来其製法ヲ継承シテ以テ今日ノ盛ヲ見ルニ至レリ、顧フニ李氏ハ我有田ノ陶祖タルノミナラス本邦窯業界ノ大恩人ナリ、苟(いやしく=かりそめに)モ斯(この)業ニ従事シテ其余沢(=先人の残した恩恵)ニ浴スル者孰(いず)レカ其遺功ヲ欽仰(=尊敬の気持ちを込めて慕う)セサランヤ。」
また、この撰文続いて、「従六位千住武次郎撰」とも刻まれており、撰文者が千住武次郎という方であったことが分かります。この方は、佐賀県出身の郷土史家で、明治30年東京帝国大学文化大学史学科を卒業後、全国各地で中学校教員や校長を歴任され、大正2年(1913)には佐賀県立佐賀中学校長に就任されています。また、大正14年に退職された後は、佐賀県立図書館長や徴古館長、肥前史談会会長なども歴任されており、ちょうど碑文を撰せられた頃は、佐賀中学校にお勤めの頃かと思われます。
この方は、地元佐賀ですが、有田出身の方ではありませんので、例の江越礼太と徳見知愛による『皿山風土記』の件で、横尾謙の『改作皿山風土記』で横やりが入ったようなことが起こりかねません。ただ、当時は、中島浩氣やら徳見知敬をはじめ、ちょっと歴史に関してはうるさ型の面々がちゃんと有田に控えていますので、かなりすり合わせは行っていると考えて間違いないでしょう。
それに何より、陶祖の顕彰のためこれは有田町の総意として建立したものですので、ある意味、これが当時の町としての陶祖に関する公式見解として捉えられるものであることは間違いありません。
という、前段のお話しをしつつ、長くなりますので、内容の吟味については、また次回。(村)