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有田の陶磁史(71)

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前回は、「陶祖李参平之碑」について、お話ししているところでした。この碑によって、少なくとももう地元としては、「李参平が泉山を発見して、日本初の磁器を創始した」という話しは、通説どころか、テッパン説と言ってもいい状態になりました。でも、これってほぼ明治時代から李参平磁器創始説として語られていた内容と同じで、かつて…、いや、今でもよく知られている通説とは、まだちょっと差があります。

「元和二年、李参平は、泉山で陶石を発見し、白川天狗谷に窯を築いて、日本初の磁器を創始した。」

というやつです。今までも、何度も指摘してきましたが、やっぱりまだ「元和二年」と「天狗谷」が出てきませんから。

ただ、明治までの説とほとんど違いはないのですが、よくよく見ると、ビミョーに細部に違いが見られます。まず、「我カ陶祖李参平氏ハ朝鮮忠清道金江ノ人ナリ。」とありますが、正確に言えば、実は『金ヶ江家文書』にも『多久家文書』にも、「金江」という記述は出てきません…いや自信はありませんが、身の回りで目に付く文書では探せません。金ヶ江家や多久家の18世紀の後半から19世紀初頭の文書では「金ヶ江」出身というのが定番で、文化10年(1813)頃のものからは「金ヶ江島」に変わってしまいます。ただ、明治10年(1877)、黒川真頼著の『工芸志料』ではすでに「金江」となっていますが、『皿山風土記』などでは「金ヶ江村」としています。「金江」なら、たとえばソウルの近くを流れる河川を「漢江」と呼ぶように、河川の近くを連想しますが、「金ヶ江村」だと村ですし、「金ヶ江島」なら島です。どうせ聞き伝えでしょうから、そんな些細なことまでは気にしない牧歌的な時代だったのかもしれませんね。というか、現代の少なくとも学術系の著書では、当然引用の場合は、一字一句違わないように正確に転記しますが、この頃までの書籍の引用って案外いい加減です。引用と言いながら、一文字どころか、だいたいこんな感じってのも珍しくありませんので。

それはともかく、新たに「忠清道」の記述が加わるってことにも注目です。忠清道は、韓国の中西部あたりの地域ですが、これってどっからきたんでしょうか?これまでご紹介したような古文書類にはありませんし、きっとどこかにはあるんでしょうが今のところ前例を見つけきれません。まあ、出身地名から金ヶ江の名前になったってことなので、当時の人が躍起になって似た地名を探したってとこでしょうけど?そういう地図とのにらめっこは、一度はやってみたくなるんですよね。なかなか思いどおりには見つかりませんが…。

ちなみに平成2年には、有田町内などから寄付金を募り、陶祖李参平公顕彰委員会によって韓国に「日本磁器始祖李参平公記念碑」が建立されています。記憶によれば、李参平の生誕地に建てるってことで、韓国側に調査を依頼し忠清南道公州市の鶏龍山のあたりに落ち着いたようです。

おそらく忠清道ありきということではあったんでしょうが、当の韓国からの報告文を読んで「???」だったような記憶があります。鶏龍山には確かに古窯跡はありますが、生産技術的に特に有田との近さは感じられませんし、文禄・慶長の役の際にも鍋島軍と接点があるわけでもありません。ただ、日本から観光客を呼ぶにはうってつけの、風光明媚なところではあります。

もっとも、ある韓国の方と鶏龍山に同行した際、観光名所となっている東鶴寺付近を流れる渓流のそばを通ったところ、ここは子どもの頃の李参平が遊んでいた場所だと、もっともらしく現代の(?)昔話をされていたことが思い起こされます。また、別の方は、この道を加藤清正軍が駆け抜けたとか、まるで昨日のことのように真顔で話されたりするのですが、どこまで本気で信じていらっしゃるのやら?残念ながら、鍋島軍も属した加藤軍が通った史実はないんですよね。こうした例に限らず、歴史の研究をする上では、やはり原点からきっちり流れを押さえておく必要性を強く感じるところです。(村)H31.2.1

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