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有田の陶磁史(72)

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前回まで、大正前期の祥瑞磁器創始説と朝鮮人陶工…、いや、もはや李参平磁器創始説と言っていいかと思いますが、それについてお話ししていました。内容については、さほど明治と大差ありませんでしたが、地元では誰でも目にすることのできる大正6年(1918)の「陶祖李参平之碑」の建立をきっかけに、完全に祥瑞は排除され、李参平を陶祖並びに磁器の創始者として位置付けることがいわば公式的に宣言された状態となりました。

この大正は15年しか続かない短い時代でしたが、前半と後半では少し状況が変わり、大正の後半から昭和の前期にかけて、日本磁器の創始者の説も大きな変容を遂げていきます。特に祥瑞説は大きく後退しますが、それに代わって勃発するのが、磁器創始地論争です。

「陶祖李参平之碑」では、『金ヶ江家文書』などの記述から、素直に泉山発見後、白川、つまりまだ名称は出てきませんが、天狗谷窯で磁器が創始されたと断じられています。ところが…、です。明治36年(1903)刊行の『陶磁器史論』という著作を覚えていらっしゃるでしょうか?例の北島似水さんの妄想てんこ盛りの書籍です。何と、あの罪作りな妄想が独り歩きをはじめたのです。

大正10年(1921)に武雄市山内町出身の元東京日々新聞記者大宅経三が著した『肥前陶窯之新研究』という書籍があります。この頃には、有田で『肥前陶報』の主筆も務められています。“新研究”というタイトルですが、中身の大半は以前ご紹介した久米邦武著『有田皿山創業調子』を写したような内容です。ただ、それとは違う、新研究と言っていいかは疑問ですが、李参平が磁器を創始する経緯が記されています。かいつまんで記せば、李参平は元和二年(1616)に有田の乱橋(三代橋)に移住。ここまでは、ごく普通です。ただ、薪や水の供給も不便で、多少同族間にも風波や抵抗も起こるので、余儀なく板ノ川内に移って製陶したんだといいます。「???」これって、どこかで見聞きしたことありませんか?そう、あの南川原はすでに別系統の朝鮮陶工であふれており、その抵抗に耐えられないのと薪や水が欠乏したので板ノ川内に移ったとし、先住者が主導するのは社会の原則、生存競争は人類の同種族では必ず起こるもので、社会の進化はそのようにして発展するんだとまで断言する北島妄想説そのままです。山内町出身ってことで、地元びいきも少しはあったんですかね?特に根拠も何も記されてませんので、これじゃ、そんな伝承や文献があるのかと勘ぐってしまいます。もちろん、ありません。

ただ、前に記したように、残念ながら大正時代の地元有田には、もうテッパン説ができあがってますので、それを無視することもできなかったでしょう。北島妄想説では、百間窯で最初に磁器が焼かれたことにしましたが、大宅説では、はっきりと磁器を焼いたとはせず、“製陶”したことにしています。そして、後に泉山を発見し、白川の天狗谷に登り窯を築いて、白磁焼成を開始したといいます。これは、普通に読んだら白川の天狗谷窯が磁器創始の窯と読めますが、うがった読み方をすれば、あくまでも天狗谷窯は泉山発見後にはじめて白磁を焼いたところで、北島説が優勢になれば、それ以前に百間窯ですでに焼かれていたという言い逃れはできそうです。まあ、素直に天狗谷磁器創始説として、捉えてはおきますが…。それはともかく、ここで、はじめて「天狗谷」という用語が使われるようになるのは注目したい点です。

この北島妄想説ですが、当時はけっこうマジで受け止められていたようで、全国説の中でも取り上げられているのですが、それについてはまた後日。(村)H31.2.8

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