前回に続き、大正時代後半の話しです。この大正時代から昭和初期の陶磁史研究と言えば、触れないわけにはいかない団体があります。大正3年(1914)設立の彩壺会です。東大教授や理化学研究所長を歴任し、貴族院議員なども務めた大河内正敏をはじめ当時のそうそうたるメンバーが組織した研究会で、大正5年に出版された『柿右衛門と色鍋島』にその設立の趣旨が以下のとおり記されています。
彩壺会とは何?…東京文化大学の心理学教室内にある陶磁器研究会中で、鑑賞や蒐集に熱心な同人が寄り集まって、何か斯界に貢献し度いと謂ふのが元で出来た会である。先其第一着手として、従来我国に皆無であった陶磁器の科学的賞鑑……若し我等の鑑賞法をそう名け得るならば……に関する参考書を、出版する事になった。
つまり、それまで茶の湯の世界などでは通有であった伝承されたモノの来歴や箱書きなどではなく、自分の眼を信じる科学的な鑑賞法を確立しようとしたのです。たとえば、現在でも「古九谷」や「柿右衛門」、「古伊万里」、「鍋島」などの用語を日常的に使いますが、この概念を確立して普及させたのもこの彩壺会でした。当時は相当に力を持っていた会だったようで、プロの学者でも異論を挿むことには勇気がいったようです。ですから、この彩壺会の出版物を見れば、だいたい当時の全国区の説が分かるということです。
磁器の創始に関しては、大正10年(1921)に出版された陶磁研究者の鹽田力蔵氏の講演録である『肥前磁器の創業期』で触れられています。その中で、長くなりますので今回は、まずは祥瑞がどう位置付けられたかの中のさわりの部分を見てみたいと思います。
「とにかく陶器考のやうな徳川時代の或る骨董書中に、五郎太夫が日本で初て磁器を焼いた、其場所は有田であると伝ふやうな事が少し見えて居ったのが、明治の初めに又盛り返ったやうな訳で、それから外国にも伝はり、幾らか横文の書中にも見えてある。さうして本場の有田にも少しは其やうな話しが伝はって、一部の人には信ぜられて居る位になったけれども、同地の大部分のものは朝鮮人の子孫である所から、さう云ふことを余り耳にいれない方である。」
つまり、これまでこのシリーズで見てきたような江戸後期から明治の祥瑞説の推移について、概略が述べられています。ちなみに陶器考とは、以前触れたことのある嘉永7年(1854)田内梅軒著の『陶器考』のことです。それにしても、有田にもそんな説が多少伝わって、一部の人には信じられるようになったというくだりはいいとしても、有田人の大部分は朝鮮人の子孫だから、あんまりそんなのは聞かない方だというのは、今ではなかなかズバリは言いにくい表現ですね。まあ、あながち間違いではないので、「陶祖李参平之碑」の段階では、祥瑞を軽く無視できたということでしょうから。
ということで、この続きはまた次回。(村)H31.2.15