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有田の陶磁史(74)

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前回は、大正10年(1921)の鹽田力蔵講演録『肥前磁器の創業期』から、祥瑞説のさわりをご紹介しました。続きです。

 

「数人の研究した所では、五郎太夫は詰り日本で磁器を作ったことはあるまいといふ方が確からしく、私もそれを信じたいとおもって居る。要するに有田磁器の元祖を祥瑞五郎太夫とすることには、少しも証拠が無いのである。五郎太夫と有田磁器の始まりとの間は凡そ百余年も距って居るが、其磁器の起こったのは祥瑞の後の再興ではなく、豊公征韓後の朝鮮帰化人に依って新しく起こったに相違ないやうである。」

 

以前、大正7年(1919)刊行の日本陶磁器協会編の『日本陶磁器全書』で、祥瑞の製作範囲が恐ろしく肥大化しているという話しをしました。ところが、一転、大正時代も後半になると、祥瑞は日本では磁器を生産していなかったのではないかという説が主流になります。ただ、ここで気をつけておかなくてはいけないのは、まだ祥瑞という人物自体の存在を否定しているわけではないことです。あの北島似水がパワープレイで仕立ててしまった“祥瑞は陶工じゃなかった説”に近いものと思えばいいかと思います。もしかしたら、文中に言う、“数人の研究した所”の中に似水さんも入っているかも?話しの流れとして、先ほどに続く内容も、よく似ています。

 

「それから此祥瑞と有田磁器の始めとを連絡するのに竹原五郎七といふ人があって、是が或は双方の連鎖になるのではないかと伝ふ考も起るけれども、此五郎七の時代は、祥瑞から凡そ百年後にあたりに活動した人で、つまり五郎七と有田磁器の始まりとは同時代であるから、祥瑞の弟子筋に五郎七があったと伝ふのは無理のやうになって来る。五郎七といふ人は、有ったに違ひないが、それを祥瑞の直伝を受けた人とは、何うしても言はれまいと思ふのである。そうして見ると、祥瑞と有田磁器はと全く縁故の無いものとなって仕舞ふやうである。(只五郎七が南河原の柿右衛門に招かれるまでには、既に白手焼の法を心得て居たことは見えるが、此白手焼といふだけならば、信長時代から美濃の久尻にも出来て居った。)」

 

似水説については、このシリーズの(52)で触れていますが、似水さんの場合は、祥瑞五郎太夫を無理やり承天寺に滞在したことにして、時期的な整合性のない五郎七に間接的に技術を継承させてしまいましたが、さすがにここでは、そこまではしていませんね。逆に祥瑞と有田に接点がないことの証明として利用しています。ちなみに、最後の美濃の久尻というのは、岐阜県土岐市にある元屋敷窯跡のことで、白手焼とは磁器のことではなく、“志野”のことだと考えて間違いありません。さすがに、現代の研究では、信長時代に志野は無理そうですが…。

ということで、次回は同書の中から李参平説について見ていくことにします。(村)H31.2.22

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