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有田の陶磁史(75)

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前回は、大正10年(1921)の鹽田力蔵講演録『肥前磁器の創業期』から、祥瑞説の部分についてご紹介しました。本日もその続きですが、李参平説についてです。

まあ、李参平が有田では最初に“乱橋”に移り住んだというところまでは他の方の著作でもそうですが、ほぼ例外なく同じです。そして、この時焼いたのは“土焼”とされ、時代もわずかだったと記されます。もちろん土焼とは陶器のことです。

そして、原料を探すか薪水の便利な所を選ぶためか、乱橋のところから川上に遡って泉山で磁器の原料を発見したとしますが、この説明は少し変ですね。原料を探すためにというのは分かりますが、薪水の便利なところを選ぶために探し歩いて、磁器原料を発見したでは、偶然っていうこともないとは言いませんが、通常は意味が通じません。これは、前にもどこかで紹介しているかもしれませんが、実は『金ヶ江家文書』の文化4年(1807)の記述にある、泉山発見後、最初に天狗谷に窯を築いた理由として出てくるものです。

また、泉山発見の年代については、以下のように記されます。

 

「此発見した時代は種々に書いてあるけれども、先ず寛永の初年頃で、或本には同六年などゝも見えるやうであるが、是は何うしても年限の判然しかねる筈のもので、つまり寛永の初めから余り過ぎて居ない頃、即ち西暦千六百三十年前後の所であらうと思ふ。」

 

寛永時代は1624年~45年までですので、初年頃と言われるともう少し早い年代を想像してしまいますが、即ちとして、1630年前後頃と推測されています。書き方の雰囲気からさして根拠はなさそうですが、実は、現代得られる資料から推測しても、ドンピシャ!1630年前後頃と推測されます。いい勘してますね。

ところが…、ところが…です。この1630年前後頃説は、残念ながら普及はしませんでした。というのは、別に泉山の発見の年代がどうこうだからではありません。それどころか、泉山がいつ発見されたかなんて、この前にも後の時代にもほとんどまともに議論の対象になったことはないのです。

では、どういうことかといえば、要するに磁器の創始年代との絡みです。当時は、まだ磁器の創始年に関する明確な説はなく、漠然と元和・寛永(1615~45)頃と考えられていました。でも、元和・寛永の頃と言われれば、心情的には寛永だとしても前の方に引っ張られてしまうと思いませんか?元和2年(1616)に李参平が有田の乱橋に移住したけど、そこでは長く焼かなかったというのが、この鹽田説もそうですが、当時の雰囲気ですしね。

そこで、もし泉山の発見が1630年前後となるとどうなるでしょう。磁器の創始は、泉山発見後というのが当時のテッパン説ですので、当然、磁器の創始はその後、早くて寛永の中頃ということになってしまいます。さすがに、これはなかなか受け入れがたそうです。

それ以前に、この鹽田説は、何だか矛盾しているように思えませんか?元和2年に李参平が乱橋に移住し、製陶は短期間だったはずなのに、泉山の発見は1630年前後ということになりますからね。ただ、実はこの鹽田説は、ちゃんと矛盾しないように論が組み立てられていて、意外なもう一捻りがあるんですが、長くなりますのでまた次回にお話しすることにします。(村)H31.3.1

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