大正10年(1921)の鹽田力蔵講演録『肥前磁器の創業期』から、李参平磁器創始説の部分についてご紹介していました。前回は、寛永初年頃、すなわち、1630年前後頃に泉山が発見されたというところまででした。
さて、そうなると…、元和2年(1616)に有田の乱橋に移住した李参平は、そこでは短期間しか製陶しなかったという御説ですので、その間はどこでどうしてたんでしょうね?そして、泉山の原料を使って最初に磁器を焼いた場所は…ってことになるわけですが…。“あれれっ?そっちにいっちゃいましたか??”北島似水妄想説ここでも元気です。
「其李参平の磁器は何所で焼いたかと伝ふと、有田の西方の乱橋の窯は何か気に食はなかったと見えて、今の有田の町と山一つを距てた東南の方に当って、杵島郡板野川内といふ所に可なり大きな窯を造って、此所では随分永く焼いて居ったやうである。其窯は矢張り登窯の一種で丸窯といふ種類のものであるが、室数が可なり長く続いて居った為めに、百間窯といふ名前が付いて居る。」
どうやら、乱橋を拠点にして、泉山を探し回ったのではないようです。おなじみの山内町の百間窯だそうです。でも、さすがに例の「生存競争は人類の同種族では必ず起こるもの」とは書けなかったんでしょうね。乱橋を去った理由は、「何か気に食はなかったと見えて」とぼかしています。でも、本当に問題なのは、この文章に続く百間窯の説明です。
「それで此窯は、初めの製品は土焼で、暦手、象嵌物なども幾分あったけれども、土焼の方は割合に少くて、間もなく石焼に移った。是は石山を発見した後のことで、石焼の方は大分永く続いたが、其初めに出来た物は土焼と石焼の中間のものであって、磁器よりは寧ろ石器といふ種類に当って居る。」
つまり、百間窯では最初は陶器を焼いていて、そこを拠点として、まもなく泉山を発見して磁器を焼いたということになりますね。そして、最初の頃のものは、陶器と磁器の中間的な炻器的なものだったというように解釈できます。確かにここの窯の製品は、胎土が荒くてスキッとした磁器ではなく、貫入がバリバリ入るものも珍しくありません。かえって、そこが味わいとして評価されたりはするんですが、今となれば、別に古いからそんな胎土というわけではないのは判明しています。
それはいいとして、ついに、はっきりと百間窯が磁器創始の窯と明言されているのは驚きですね。これ以前にも天狗谷窯よりも百間窯の成立が早いという説はありましたが、ほぼどっちが磁器創始の窯か文章からは判別できないような微妙な言い回しばかりでしたから。
ただ、実際には、これにはさして根拠はないようですが、長くなるのでまた次回。(村)H31.3.8