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有田の陶磁史(77)

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大正10年(1921)の鹽田力蔵講演録『肥前磁器の創業期』の李参平磁器創始説の続きです。

前回は、元和2年(1616)に有田の乱橋に移り住んだ李参平は、短期間でそこを離れ、山内の板ノ川内に百間窯を築いて、そこで製陶している最中に泉山を発見して磁器を創始したという主張でした。やはり、あの北島似水説に感化されたんでしょうか。この場合、全国区の説では、大概の著述で百間窯が先のような白川が先のような曖昧にお茶を濁すってのが定番だったんですけどね。もちろん、白川天狗谷窯説にも触れられているんですが、結局、百間窯説を支持されています。つまり、これで例の大正6年(1918)に建立された「陶祖李参平之碑」に刻まれた白川一本に絞った説、つまり地元説との真っ向対決ということですね。

もちろん、一応百間窯説でも矛盾しないように、磁器創始後の流れについても説明されています。でも、それって、元は何かの言い伝えや古文書の記述があるわけじゃなく、あくまでも北島妄想説が発端なんですけど…?

 

「さて前申した百間窯は大分永く続いたけれども、有田の石山との中間に嶮岨な峠を距って居るので、磁器業を盛大にするには不便である。多分以前は百間窯の方が大道筋に当って居ったのであらうが、有田の方に石山を発見すると共に段々と工人が集まって来るし、百間窯の方は石山からの道が不便の為めに、丁度今の有田の中になって居る小樽の地に窯を移して、それから有田の町中に段々と窯が殖えるやうになった。そうして道路も何時か有田の方を本筋とするやうになって来たのである。」

 

何だか、北島妄想説の時と同じことを書かないといけなくなりそうで怖いですが、あくまでも、関係史料中に中樽や百軒などの名が登場するのは、『金ヶ江家文書』に言う、泉山発見後、はじめは白川で操業した後に、「其内上幸平中樽奧江も百軒程之釜登相立候処、余り片付候場故相止、其後は村々所々江釜を移し申したる由。」という記述のみです。つまり、『金ヶ江家文書』における順番を示せば、

 

乱橋 → (2)泉山発見 → (3) 白川(天狗谷窯)に築窯 → (4)中樽奥(小樽1・2号窯、百間窯)に築窯

 

という流れになりますが、この鹽田説では、

 

乱橋 → (2)百間窯を築窯 → (3)中樽(小樽・号窯)に築窯 → (4)天狗谷窯築窯

 

ということになります。くどいですが、これに言い伝えや古文書などの史料はありません。あるのは、北島妄想説のみです。

さあ、これからどうなっていくのでしょうね?というか、時代とともに根拠となる史料類にどのように記されているかなどの情報が段々広まるようになると、まったく別の資料でも持ち出さない限り、とりあえず、結果は見えているような気もしますが。(村)H31.3.15

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