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有田の陶磁史(78)

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前回まで10回に渡り、大正時代の日本磁器創始説についてお話ししてきましたが、わずか15年ほどの短い期間ですが、結構大きく見解が動いています。さすがにこれだけ、毎回同じような、でもちょっと違うみたいな内容ですので、よほど頭脳明晰な方でもない限り、頭の中がこんがらがってくるのは確実だと思います。なので、ここで最後に簡単に大正時代をまとめておきます。

まずは、五郎太夫祥瑞説についてですが、大正時代の前半と後半では状況が大きく違ってきました。正確に言うと、前半と後半に優勢になる説は全期間混在しているんだとは思いますが、明治説を引きずる前半と昭和説に引き継がれる後半では、やはりかなりの違いがあります。

前半については、最初、大正7年(1919)刊行の『日本陶磁器全書』をご紹介しました。それ以前の説と違うのは、まず、土や釉などの原料は、正式に中国から持ち込まれたことに決められたことです。したがって、原料に限りがありますので、製作された磁器も少数ということにされています。ところが、逆に製品の種類は明治時代よりもずっと大盤振る舞いで、従来の「染付焼」に加え、「錦手焼」(色絵)、「青磁」、「ヒビ焼」まで加わっています。さすがにここまで手広くすると、もはや祥瑞説の自滅です。金襴手の祥瑞なんて、どんなものだか想像すらできないですよね。

やはりというか、大正も後半になると祥瑞説の自滅が鮮明になります。大正10年(1921)刊の鹽田力蔵講演録『肥前磁器の創業期』では、祥瑞は日本では磁器を作らなかったということになっています。何しろ、中国原料を用いたということまで踏み込みましたので、もともと少数しか作れなかったはずですから。それなのに、あまりに大盤振る舞いで作品の種類を広げて説を振りすぎたもんだから、そんなの作った証拠が何もないという、逆に反対側に大きく振られる展開が待っていたのです。まあ、さすがに北島似水妄想説のように、もともと陶工じゃなかったとまでは風呂敷は広がりませんでしたが。

ただ、前半説だろうが後半説だろうが、一貫しているのは、中国で磁器の製法を会得した祥瑞五郎太夫という日本人陶工が存在したという点です。後半説でも、日本では製作しなかったというだけで、中国では製作していたとすること自体に違いはありません。

この祥瑞説の窮地に及んで、昭和の初期には、一発大逆転を狙った説が現れるのですが、それは、また昭和のところでお話しします。

(村)H31.3.22

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