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有田の陶磁史(250)

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 前回は、喜三右衛門(初代柿右衛門)の開発した「赤絵」など、1644年から47年の短期の間に、複数の“古九谷様式”が開発されたって話をしてました。それで、これが山本神右衛門さんの運上銀増額徴収の切り札だろうということです。

 1647年には、磁器の海外輸出もはじまりましたが、この時輸出された「粗製の磁器」、つまり、たぶん“初期伊万里様式”の製品では、おのずと限界がありました。だって、福建省の粗質な漳州窯製品なんかならまだしも、ヨーロッパをはじめ広く流通させるためには、景徳鎮磁器の代替製品でないといけないわけですよ。

“初期伊万里様式”じゃ、景徳鎮製品とは形状や施文ルールをはじめ、スタイルが全然違いますから。だから、少なくとも景徳鎮製品の代替品にするにはだいぶ役不足。ところが、山本さんが初代皿屋代官となって莫大な運上銀を取り立てた慶安元年(1648)には、景徳鎮製品と肩を並べるだけの質やスタイルを備えた、“古九谷様式”という新製品が完成しており、しかも、海外輸出まではじまったという、まさに儲けるための条件がバッチリ揃ったわけです。

 たしかに、国内にも中国磁器が入ってこなくなったわけですから、そこにスッポリと“古九谷様式”の製品を当てはめることができますので、今までの陶器以上中国磁器以下という上下を押さえられたニッチな市場向けからも、晴れて開放されたわけです。それはそれで、めでたしめでたしではあるわけですが、当時の日本はまだ磁器が買えるほどの人は限られており、国内市場だけでは限界があります。でも、海外市場が掴めるんなら、話は別です。無限とは言いませんが、客はなんぼでもいるわけです。

 かくして、1640年代の末頃から、怒濤の如き勢いで、有田の窯場での“古九谷様式”の普及がはじまったというわけです。つまり、1647年に山本さんが代官になる直前に窯焼きと交渉していた時には、その半数の人しか理解が得られなかったわけですが、その時には、たしかに新しい技術は開発されてはいたものの、まだ特定の窯場で作られていただけですし、海外輸出もはじまったばかりですので、付加価値の高い新商品や海外でボロ儲けって話をしても、そんなもん絵空事だと思われても仕方ないところはあったでしょうね。でも、有言実行でそれを実現してしまうところが、山本さんの凄いところです。

 これが、“古九谷様式”開発の意義ってところでしょうね。だから、今はちょっと勘違いされている方もいますが、別に芸術作品作ろうとしたわけではないですよ。あくまでも、利ざやも大きく、よく売れて儲かる製品作ろうとしたってことです。

 ということで、次回からは、具体的に“古九谷様式”の生産の歴史についてお話ししてみようかと思います。(村)

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