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有田の陶磁史(80)

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磁器創始説も、いよいよなじみ深い昭和時代に突入…、と言いたいところですが、ちょっと複雑な気分…。来月から、“令和”らしいですね。昭和生まれの自分にとって、二つ前の元号である明治生まれと言えば、やはりずいぶんご高齢なイメージがあります。何と、ついに昭和がその二つ前の元号になってしまうのです。急に老けた気分ですが、まあ、でもまだ令和生まれが世の中にあふれるにはしばらくかかるでしょうから、それまでは何とか踏んばりたいと思います。でも、それ以前に昭和時代に働きはじめた者にとっては、職場に平成生まれが入ってきた時には、年取ったなって思いましたけどね。

それはともかく、磁器創始説も幕末からはじめてやっと昭和までたどり着きました。No.46あたりからはじまってますので、もう軽く30回超えです。あと一息と言いたいところですが、明治も45年(1868~1912)まで続いた長い時代でしたが、続く大正が15年(1912~26)でしたので、これを合わせても64年まであった昭和の方が長いことになります。ですから、実際には、やっと半分くらいですね。ただ、昭和以降を今までのようなペースで書こうとすると、いつ終わるのか分からなくなってしまいます。何しろ、各段に出版物も増えますから。だから、できるだけ要点だけにしとこうとは思います。

今日はもう長々と書くのはムリですが、昭和という時代をひと言でまとめると、前期はテッパン説ができる過程、中期はテッパン説がさらにテッパン化する過程、後期はテッパン説にちょっとだけ風穴が開きはじめる過程ということになるかと思います。このテッパン説というのは、もちろん、例の「元和二年に、李参平が泉山で陶石を発見し、白川天狗谷で日本初の磁器を創始した。」というやつです。

このテッパン説の形成自体は、これまで見てきたとおり、従来の古文書類や前代の研究書等を参考にする手法の中で、紆余曲折ありながらも、徐々に形成されてきたものです。って言えば聞こえがいいですが、大概は文献の引用や解釈もテキトーですし、ありもしない話しをまるで伝承でもあるかのように妄想するいいかげんなものも珍しくないわけですから、情報が正しく伝わる環境の大切さを今さらながら感じます。ただ、大正時代までは、少ない情報を絞り出すようにして解釈を加えていたわけですが、現代のように情報があふれる時代になると、いわゆる山のようなフェイクの中から、本物を掘り出すのに苦労したりはしますが。

まっ、そんなことはどーでもいいですが、実は、このテッパン説が昭和の中期にさらにテッパン化するのは、それまでとまったく次元の異なる新しいアプローチによるものです。ピンときた方もいらっしゃるかと思いますが、考古学という分野です。大正時代の彩壺会の設立趣旨にも“科学的賞鑑”というのがありましたが、この科学的ということを真に実現したのが人文科学的な発掘調査を基本とする考古学なのです。

ただし、このテッパン補強をしたのも考古学でしたが、これに風穴を開けたのも、また考古学でした。今では、窯業史や陶磁史研究に考古学は欠かせないものとしてエラそーにしてますが、まだまだ近世の研究分野としてはヒヨッコみたいなもんです。今年は「近世考古学」が提唱されてからちょうど50年になりますが、近世考古学が専門と言って、キワモノを見るような目で見られなくなったのは、せいぜいここ30年くらいのことです。ということで、話しが脱線しましたが、次回から、マジメに昭和の磁器創始説について記してみたいと思います。(村)H31.4.5

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