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有田の陶磁史(81)

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前回は、昭和時代の磁器創始説に入りそうで入らない、何ともとりとめもない話しに終始しました。本日からはまじめに大正時代までと同様に、“祥瑞説”、“朝鮮陶工(李参平)説”の順にお話してみたいと思います。

と…、言いたいところですが、とりあえず、やや脱線します。いや、正確には脱線ではなく、昭和になって打ち上げ花火のようにパッと出ては消えた説について、先に触れておこうかと思います。別に一度だけの花火なら触れなくてもいいんですが、同じような花火が、少しずつ形を変えながらも、今でもたまに打ち上がるからです。

それは、武雄磁器創始説です。武雄説については、例の百間窯が武雄市所在なので別に新しい説とは言えないように思えますが、百間窯のある山内町は平成の合併で武雄市となってますので、もともとの武雄説とは異なります。武雄説とは、武雄市の武内町大字真手野の内田地区に所在する窯場とする説で、代表的な窯跡としては国指定史跡である大谷窯跡や小峠窯跡などがあります。

ただ、以前も触れたことがあるかもしれませんが、武雄市の窯跡の製品組成と、有田のそれを単純に比較することには意味がありません。武雄市の場合は、伊万里市周辺で盛行する磁器創始以前の胎土目積み段階の技術と有田の磁器創始後の技術が別経路で導入され、一つの窯場の技術として合体しているからです。ですから、単純に製品組成から見ると、胎土目積み段階の製品組成の中で磁器が作られはじめますので、一見すると有田よりも早く磁器が作られているように思えてしまうというからくりです。まあ、昭和のはじめにこんなことまで分かってませんので、元祖武雄説には別の理由があるわけですが。

この説が最初に飛び出したのは、昭和5年(1930)の大宅経三氏による講演です。詳しくはまた後日お話ししますが、この大宅氏は、本シリーズNo.72において大正10年(1921)『肥前陶窯之新研究』の著者として、説を紹介しています。まるで久米邦武著『有田皿山創業調子』と例の北島似水妄想説を合体させたような、新研究とする割にはほぼ主体性のない内容でしたが、もちろんこの時には、まだ武雄説など影も形もありませんでした。(村)H31.4.12

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