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有田の陶磁史(82)

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前回は、昭和5年(1930)年の大宅経三氏の講演で、はじめて武雄磁器創始説が飛び出したというところまででした。本日からその内容について順次お話ししていきます。これについては、昭和19年(1944)発行の水町和三郎『伊万里染付大皿の研究』に講演内容が掲載されていますので、そこから引用したいと思いますが、本日はとりあえず水町氏の導入の部分について記してみます。(旧字体は新字体に直します。)

「鉄道佐世保線が鳥栖から西下して武雄温泉地を過ぐれば、鉄路は間もなく丘陵にかかり、一盆地に達すると三間坂と言ふ駅に出る。此処より北方唐津方面に通ずる武内村県道沿ひに真手野と伝ふ宿がある。宿より更に約十町東方に当る地点に内田山、黒牟田山と呼ぶ谷間の山村が寂しく存在する。此の内田山、黒牟田山を中心として此付近一帯の地には其の昔、豊公征韓役の際、領主後藤家信に従って来た多くの鮮人陶工に依って創業された所謂高麗窯跡が無数に散在する。此等諸窯跡を検するに、其の物原よりは、何れも高麗伝風の古拙な粗陶片が採掘されるが、其の内、内田山小峠にある二箇所の窯跡よりは、粗陶片に混って多くの染付磁片が発見される。此の内田磁器に就て、肥前陶磁史上、一つの問題が提出されて居る。其れは此の内田磁器は有田磁器の創始前であって、実に本邦白磁の先駆であると言ふ説である。而して此の問題提出者は、昭和五年、前大阪毎日新聞社長故本山彦一氏の肥前古窯発掘の委嘱を受けて、実地其の発掘作業に従事された大宅経三である。」

ここで、「内田山小峠にある二箇所の窯跡よりは、粗陶片に混って多くの染付磁片が発見される。」とあるのは、現在は小峠窯跡と古屋敷窯跡と称されている窯跡のことだと思います。平成6年度に実施された武雄市教育委員会の発掘調査では、古屋敷窯跡の物原から胎土目積みや砂目積み陶器に混じり染付や青磁ほかの磁器が出土している一方、最終焼成品と推測される登り窯の焼成室床面からは、砂目積み陶器に混じって目積みしない絵唐津大皿などが出土しています。目積みしない絵唐津大皿は、明らかに胎土目積み段階の組成に含まれるものですから、それよりも前に、すでに磁器が焼成されていることが分かります。前回お話ししたように、こんな具合で、武雄の窯の組成は、単純に有田とは較べられません。

ということで、次回は大宅経三氏の御説をご紹介することにします。(村)H31.4.19

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