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有田の陶磁史(83)

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前回は、昭和19年(1944)発行の水町和三郎『伊万里染付大皿の研究』から、昭和5年(1930)の大宅経三氏の講演に入る手前で終わってました。本日はその講演部分を引用してみることにします。

「この小峠窯は二つとも略同様の製品で、始めは象嵌手、三島写しともいふべきものを、極めて拙でありますが、まづ焼いたのであります。それから此処から白磁器染付を発見されたのであります。鍋島侯爵家の古記録に「皿山創業調」といふ写本があります。写本といふよりもこれ一冊きりの所謂原本でありませう。その中に書いてある記録によりますと文禄の役に伴れて来た陶工の長老、これは朝鮮貴族の出であると言ふことですが、宗伝と伝ふ当時三十六歳の熟練な陶匠が居りました。それについて来た一族は可なり沢山の人数であったらしく、尤も陶工許りでない、菓子工、織物工、其他技量を備へたものは悉く日本に移住させたのでありまして、見方によりましては、此の朝鮮役は頗る日本の文化を促進したのであります。その宗伝は鍋島家の命令で内田に陶場を開き前後約六十年間事業を経営して、遂に内田の地で没したのであります。しかし目下その墓地が果して内田付近の何れにあるか判明しないのであります。この宗夫人はなかなかの賢婦人で、余程長生した人で百婆仙と呼び、有田白磁器の進出に伴ふて、当時に内田在の陶工無論移住民全家族でありませうが九百六十余人の一大家族を率ひて有田に移住したのであります。内田の窯に火の絶へたのも恐らくこの時でありませう。宗伝は日本に来た時三十六歳の働き盛りの壮年であります。一方有田白磁器の創始者であるとされてゐる李参平はこの時十三歳、尤も朝鮮では十三歳といっても既に妻君もあったでせうが、兎に角陶匠としては李参平よりも、宗伝の方が長老株であったに違いありません。」

講演はまだ後半に続きますが、ここまでの部分に関して、水町氏が以下の疑問を呈されていますので一旦切ります。

「宗伝日本渡来の歳を三十六歳と言ひ、三兵衛日本来朝の歳を十三歳と認めるは如何なる文献に依りしか、大宅氏は、鍋島内庫所にある「皿山創業調」依ると述べられて居るが、実は「皿山創業調」のどのページを開いても左様な記文は見えない。」とします。この「皿山創業調」とは、以前ご紹介した久米邦武著『有田皿山創業調子』のことですが、確かにそんなことまでは書いてないようですね。いったい、どこから出た数字なんでしょうか?

ただ、水町氏は、一応、百婆仙については死亡した年と年齢から、文禄三年に渡来したとすれば33歳になるため、宗伝についてもその前後の年齢だろうと推定はできるとし、同様に三兵衛についても死亡年は分かるため、文禄三年に渡来していて、仮に75歳に死亡したとすれば14歳くらい、80歳なら19歳にはなるが、いずれにしても、何歳で渡来したかはっきりとは言えないとしています。

たしかにそうですね。水町氏の仮定にしても、無理やり大宅説の年齢に合わせようとすればということですから、結局、何らかの根拠があるわけではないですから。渡来を文禄三年とすることすら“?”ですし。でも、誰かがこういうおいしい数字を示すと、すぐに飛びつく人が出てくるんですよね。こうやって、伝説・伝承と言われるものに、ますます膨らみが出てくるわけです。こんな例は、肥前陶磁史の中にはほかにも山ほどあります。だから、手間ひまはかかっても、まずは元から調べなきゃだめなわけです。

ということで、本日は平成最後のアップで、明日からは10連休となります。まあ、有田では恒例の陶器市シーズンで日中はほぼ動きが取れませんし、それなりに行事ごとも入っていますので、ずっと休んでるわけにもいきませんが…。普段2万人しか住んでない町に、いや、陶器市の会場となる範囲だけだとその半分の人口にもなりませんが、そういう町の造りになっているところに、一週間で120万人もの人がどっと訪れるとどうなるのか。陶器市未体験の方にも、ぜひこの特別な空間をご体験いただけたらと思います。でも、さすがに陶器市期間中ずっと休日というのは初体験です。いったいどうなるんでしょうね?(村)H31.4.26

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