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有田の陶磁史(85)

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前回は、近年深海宗伝や百婆仙が注目されているという話しをしました。そして、有田の報恩寺に、宝永二年(1705)に宗伝・百婆仙のひ孫に当たる深海宗仙が建てた「萬了妙泰道婆之塔」が現存しているというところで終わってました。この碑は、百婆仙の死後50年ほど後に建てられたもので、今に例えれば、昭和40年代くらいに亡くなった先祖について記していることになりますから、そんな大昔でもありませんし、ある程度信憑性は高いのかもしれません。ただ、すでにこの碑は文字の風化が進んでいて、それ以前に漢文ですのでちょっと敷居が高い。ですから、ここでは『有田町史』(通史編)で現代文に直されているものをご紹介したいと思います。

「ひいばあさんの姓名はわからないが、朝鮮深海の人である。文禄の役で日本軍が朝鮮を攻めたとき、武雄の領主後藤家信も従軍したが、家信が帰国するとき、ひいじいさん夫婦は広福寺の別宗和尚にしたがって武雄にやってきて、数年間は広福寺の門前に住んでいた。やがてひいじいさんは家信から内田村に土地を与えられたので、そこで陶器を焼いて、自作の茶碗や香炉を家信と別宗に献上した。寺僧は製作者の名をとって、これを新太郎焼と称した。ひいじいさんは元和四年(1618)十月二十九日に亡くなった。法号は「天室宗伝」である。ひいばあさんは夫の死後、内田を去って稗古場に移住した。移住した理由は、この地に優秀な陶石が産出するので、ここが天賜の製陶地であると考えたからである。このとき、朝鮮から渡来した人たちは、ことごとく内田を去って稗古場に移住した。ひいばあさんは明暦二年(1656)三月十日に亡くなった。九十六歳であった。ひいばあさんは温顔で耳が垂れ、慈愛に満ちていたので、孫たちは尊敬して「百婆仙」と尊称した。」

ちまたでは膨れあがった物語ができあがってますが、意外にも宗伝や百婆仙に関する記述は、少なくとも現存するものは、これがすべてです。つまり、前に示した大宅経三氏の講演録にあって、ここにないものは、尾ひれや贅肉のたぐいだと考えてよろしいかと思います。たとえば講演録では、宗伝は「朝鮮貴族の出」だとしていますが、いわゆる両班のことでしょうか?でも、たぶん両班の陶工はいないと思いますし、当然碑文にはありませんので、出所不明です。また、「内田在の陶工無論移住民全家族でありませうが九百六十余人の一大家族を率ひて有田に移住したのであります。」とありますが、碑文では「朝鮮から渡来した人たちは、ことごとく内田を去って稗古場に移住した。」となっており、人数までは記されていません。でも、現在流布してる御説では、すっかり960人とか約千人の陶工が移住したことになっています。

それから、講演録にはありませんが、日本で深海(ふかみ)姓を名乗ったのは、朝鮮の深海(しんかい)出身だったからだと言いますが、朝鮮に深海の地名がないことから、音の近い金海の間違いだろうということで、出身地と推定されています。たしかに、日本語読みでも韓国語読みでも似た発音だとは思いますが、言ってみれば、ただそれだけの話しです。

それから、お分かりのように、碑文のどこをどう読もうが、大宅氏のようにムリやり宗伝と三兵衛の年齢差でもひねり出さない限り、内田で有田よりも先に磁器を創始したことにはならないのです。(村)R1.5.17

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