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有田の陶磁史(86)

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昭和5年の大宅経三氏の講演の前半に続き、深海宗伝・百婆仙の史料についてお話ししたところでした。本日は、講演録の続きです。

 

「有田磁器の李参平によって発見されたと言ふのがはっきりした正史はありませんがまづ想像したところ慶長末から元和であります。宗伝が内田に窯を開いてから二十有余年前のことであります。この間に内田では土地に産する原料土、現今でも真手野土といって陶器原料に使用してをります。その真手野土で白磁器を焼き呉須染付の器物を作り、青磁や其他の窯変物、辰砂の如き美しい困難なインテリーな品まで作ってをります。有田白磁器の創始は日本陶業史に特筆されて一般的に認識されてをりますが、この有田以前の本邦白磁器の先駆をなすところの内田白磁器が未だ誰人にも認められてをらぬといふこと、そのこと自らがすでに新しいショックを吾々に与へるのであります。幸に今回は東洋陶磁研究所の御尽力でここに内田白磁器並にこの白磁器系統の色釉物が始めて社会に、その存在を紹介され、皆さんに向って内田白磁器の名を以て呼びかけ、手まねきをしつつあるのであります。とにかく李参平の功績は有田に大規模の記念塔まで建てて表彰されて居るのでありまして、これには私も賛成するのでありますが、一方内田白磁器と言ふものがこの李参平よりもっと前に内田で焼成されてをる事を忘れたくありません。特に後年有田焼の一つのトーンとして残った染付の型が、まづ内田窯に於て育まれて居るのであります。啻(ただ)しかし、内田の原料は有田に較べて長石質に富み、耐火度が弱く、有田焼が世界的に古伊万里、柿右衛門などを出したに反し、内田は僅かの間焼いては見たが遂に有田に押されて内田皿山は壊滅してしまったのであります。この内田白磁器に就て注意を促される点が一つあります。其れは愛好家の間に珍重がられて居る祥瑞でありますが、内田の染付に祥瑞そっくりのテクニックが現はれて居ります。祥瑞は今日作品は残って居るが、その焼成地が未だ一ツ判然しない。かうしたことを考へる時私共はこの内田を以て祥瑞の作品を焼いた窯ではあるまいかといふ疑をさへもつやうになりました。果たしてさうした憶測が実在化することになりますれば、肥前陶磁器史否日本陶業史の上に一つの革命が来る訳であります。」

 

前回、内田磁器創始説は何ら具体的な根拠がないことをお話ししましたが、虎の尾を踏むじゃないですが、ついに祥瑞に触れましたね。いくら何でもご無体な…。内田の染付には祥瑞そっくりのテックニックが現れているとおっしゃいますが、どこが…?そりゃ、たしかに真実なら“革命”かもしれませんが、却下!!こんなムリするから、ますます祥瑞説不利になるわけです。

ついでに、李参平による有田磁器の創始は、想像では慶長末から元和ですか…?でも、まさか知らなかったわけでもないでしょうが、参平の有田移住が元和2年(1616)ですから、参平が磁器の創始者だとすれば、少なくとも慶長ってことはないはずですが?でも、大正時代までは、元和・寛永ってのが普通でしたから、だいぶ後に通説となる元和2年に近づいてきました。というか、この頃でも寛永って記す方も珍しくないので、まだ年代観自体がアバウトだっただけだとは思いますが。

ちなみに、この講演のきっかけとなった発掘調査は昭和5年(1930)5月上旬に5日間実施されており、38か所の窯跡を踏査し、うち13か所の窯跡を発掘したようです。そして、12月12日~14日に発掘品展覧会が開催され、最終日の14日に丸の内電気倶楽部でこの講演が行われています。講演録のオリジナルは雑誌茶わん創刊号(昭和6年3月)に掲載されているようですが、有田では入手できませんでしたので、『伊万里染付染付大皿の研究』から引用しました。また、発掘調査は昭和6年2月にも実施されており、4月には関西彩壺会主催で大阪毎日新聞社で展覧会が開催されています。あまり知られていませんが、実は、この武雄の発掘調査の資料は、昭和40年に有田町に寄贈され、現在は、有田焼参考館で収蔵しています。

ということで、昭和のはじめに現れた、深海宗伝・内田磁器創始説についてお話ししてきました。今でも、たまに窯跡の製品組成から内田磁器創始説が顔を覗かせますが、そのからくりについては、以前ご説明したとおりです。これで、ようやく祥瑞に移れます。(村)R1.5.24

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