文字サイズ変更 拡大標準
背景色変更 青黒白

有田の陶磁史(87)

最終更新日:

今回からは、本道の祥瑞の話しに戻しますが、大正時代の後半期には日本では製品は作らなかった説が主流となり、どうも分の悪い状況となっていました。そして、昭和時代です。最後の一発大逆転とばかりに、何とも大胆な仮説が提唱されました。

説を主導したのは、石割松太郎という方で、新聞記者を経て、後には演劇研究家・評論家などをされていたようです。昭和6年(1931)に祥瑞の研究を始め、昭和9年にその集大成として『祥瑞の研究』を出版されています。

早く説について入りたいところですが、この本の中に今まで本シリーズではあまり触れてこなかった気になる内容がありますので、先にそちらをお話ししたいと思います。この当時、人の方の祥瑞ではなく、祥瑞というやきものがどう捉えられていたかということです。

「従来久しく、根本的なる誤謬が伝って、その為に述べられてゐる「祥瑞」においての史伝の種々相を更に通観すると、「祥瑞五郎太夫」を、一個の陶工として認めず、「祥瑞」といふ染付磁器は、「日本で製した?」「支那から輸入した」との両様に分れ、臆説が称えられてゐる。そして、伝来の現存の「祥瑞」と称する染付磁器に、吻合(ふんごう/二つの事柄がぴったり一致すること)するやうに史伝を捏造してゐる。永正における史伝の祥瑞五郎太夫は、「祥瑞」磁器を支那から将来したもので、謂はば「古祥瑞」といふべく、又多くの伝来の「祥瑞」は、純然たる日本の茶道勃興以来の、倭趣味 — 即ち千利休以後の、茶道に、始終した「祥瑞」の趣味は、茶人小堀遠州が、支那へ注文して製陶せしめたものであるから、謂はば「第二の祥瑞」で、第一次、第二次ともに、「祥瑞」は支那製の将来品である。 — と称えて、伝来の「祥瑞」の現品について、年代的の矛盾の辻褄を合はしてゐる。この説は、多く明治中葉 — 十三年以後の通説となったもので、今日の陶磁史家の殆んどが、この説に落着き、今日では定説となってゐるが、これは現存の「祥瑞」を、都合よく説明出来るやうに、捏ね合はせた臆説で、何等の史的典拠もない、一種の趣味家の「かうもあらうか説」である。「祥瑞」を、日本での製品だとする説は、明治以前の説に多いが、これは空漠たる、茶人の随筆風の所伝で、的確なる記述を欠いてゐるから、矛盾だらけの「伝説」としてしか請取れない。」

なかなか意味の不明の文章かと思いますので、ちょっと解説。まず、祥瑞五郎太夫を陶工として認めない当時の風潮を、お怒りになっている部分はお分かりいただけるかと思います。要するに、当時の風潮としては、祥瑞と称される器には、永正の時代に中国に渡ったとされる人物の方の祥瑞とは時代が合わず、明らかに小堀遠州などが茶道を主導した後の時代のものが含まれている。この点から日本陶工としての祥瑞五郎太夫の存在が疑われ、製品の方も古い方は祥瑞五郎太夫が中国で製作したもので、新しい方も日本から注文して中国で作らせたものとして、世間では五郎太夫と時代が合わない製品が存在することに対する、つじつま合わせがされていると批判しているわけです。こうした祥瑞中国産説に対して日本製説もあって、明治以前に多いけど、そんなのは茶人のたわごとで何の証拠もないから、伝説みたいに受け取られて、逆に祥瑞の立場を悪くしているってことです。祥瑞否定派も肯定派もまとめてぶっちぎりです。

もちろん、これだけ強気に出られるのは、石割さんがこうした時代の異なる製品としての祥瑞が存在することに、思いっきり切りぶっ飛んだ珍説、いや新説を思いついたからにほかなりません。まあ、かの北島似水氏級に、奇抜でおもしろいですよ。それはともかく、当時は、製品としての祥瑞説は、中国磁器説が通説となっていたようで、明治13年以降と明示されていますから、例の『有田皿山創業調子』以来ということだと思います。これは、以前からお話ししている祥瑞は日本では磁器は作らなかった説に通じるものと考えてよろしいかと思います。(村)R1.5.31

このページに関する
お問い合わせは
(ID:1436)
ページの先頭へ
有田町役場 文化財課

〒844-0001 佐賀県西松浦郡有田町泉山一丁目4番1号

電話番号:0955-43-2678

FAX番号:0955-43-4185

© 2024 Arita Town.