文字サイズ変更 拡大標準
背景色変更 青黒白

有田の陶磁史(251)

最終更新日:

 前回は、“古九谷様式”の開発や普及の意義がどのへんにあるのかって話をしてました。最初に“古九谷様式”の開発を思い立ったのが山本神右衛門重澄さんだとは思いませんが、それを最大限利用して、利益の大幅な拡大を狙ったのは間違いないでしょう。文献史料にそんなこと書かれてませんが、正保4年(1647)の段階で、運上銀の飛躍的増加を画策するなら、付加価値の高い新様式の開発・普及と中国磁器に代わってその海外輸出や国内への流通、とりわけ、ようやく天下の城下町としての初期の整備が終わった江戸でしょうが、それを抜きにしてはムリでしょうね。もちろん、従来の“初期伊万里様式”も健在ですけどね。

 実際に、初期伊万里風のものの需要が主流であったため類例が多いわけではありませんが、東南アジアなどでは“古九谷様式”の製品も発見されています。ただし、1640年代の輸出品は粗質な磁器でしたので、“古九谷様式”が有田の中で普及する1650年代の製品に限られます。一方、ヨーロッパにはじめて有田磁器が運ばれたのは万治2年(1659)で、その頃にはすでにピュアな“古九谷様式”の製品は生産されていませんので、ヨーロッパには当時運ばれた確実な例は見られません。

 ということで、いよいよ“古九谷様式”の製品の開発や普及の過程について、具体的にお話ししてみたいと思います。

 “古九谷様式”の分類方法には、いくつかの種類があります。よく知られているのは、製品の描画法の違いによるもので、基本は3分割です。

 一つは“青手”と呼ばれているもので、“古九谷様式”の製品と言って、最初に思い浮かぶのはこの種類かもしれません。器面全体を、色調の濃い緑や黄などの上絵の具で塗り埋めて、その中にビッシリと文様を配したもので、輪郭線を黒で描き、緑、黄、紫、青などの絵の具で塗り潰しますが、赤は使いません。寒色系絵の具のオンパレードですので、かなり重厚な感じがします。

 二つ目は、“祥瑞手”と呼ばれるものです。“祥瑞”は“しょんずい”って読みますが、中国で明末の崇禎(1627~44)期頃に景徳鎮で作られていた磁器のスタイル名で…、っていうか、ずっとこのブログを見ていただいている方でしたら、以前、日本磁器の創始者について延々とお話ししていた際に、いやってほど名前が登場してきましたよね。製品の高台内に「五良大甫呉祥瑞造」って書いてあるのがボチボチあるので、かつては“祥瑞”という陶工の名前だって考えられたわけです。今では、同様なスタイルの製品を“祥瑞”って言ってます。それを真似た有田製品が、“祥瑞手”というわけです。基本は染付の地文で埋めて、そこに丸文などを配し、その多くは輪郭線は染付で中の文様を上絵で施して完成します。つまり、染付と色絵を組み合わせて一つの文様を完成させるのが特徴です。また、上絵の輪郭線は黒ではなく、赤を用います。使用する上絵の具は、赤と黄、それから緑ではなく黄緑が基本です。ただし、だんだん他の技術と混じって、黒の輪郭線のものなど、多様なものが作られています。

 最後が“五彩手”。これは“青手”でも“祥瑞手”でもないものの総称みたいなもんで、器面を塗り潰さず、“祥瑞手”でもないものは、全部“五彩手”というわけです。文様の輪郭線は黒で、塗り潰し用の上絵の具は、赤、緑、黄、紫、黄が用いられます。

 現在でも、この3分割が最も一般的ですが、ただし、これは色絵製品による分類ですが、以前お話ししたように、“古九谷様式”の本質は、景徳鎮磁器と同等の製品を作ることで、上絵付けはそこに内包される技法の一つに過ぎません。つまり、数量的には多い、染付製品などは、これでは分けられないというわけです。

 ということで、ちょっと長くなってしまいましたので、本日はここまでにしときます。(村)

右から“青手”“祥瑞手”“五彩手”

このページに関する
お問い合わせは
(ID:144)
ページの先頭へ
有田町役場 文化財課

〒844-0001 佐賀県西松浦郡有田町泉山一丁目4番1号

電話番号:0955-43-2678

FAX番号:0955-43-4185

© 2024 Arita Town.