前回は、昭和9年(1934)石割松太郎著『祥瑞の研究』から、当時の器としての祥瑞の製作地説のご紹介をしていました。本日からは、石割氏の壮大なる祥瑞物語を記していきたいと思いますが、ごめんなさい。完全に脱線ぎみですが、『祥瑞の研究』の中に、またどうしてもご紹介しておきたいおもしろい内容がありましたので、脱線させてください。
それは、久米邦武の『有田皿山創業調子』の石割評です。以前ご紹介したように、「明治十三年東京日々新聞雑報中ニ有田皿山創業誤謬丿調子」という項目からはじまるもので、東京日々新聞によってにわかに祥瑞説が活気づいたことに反論したものです。そりゃ、この書籍は明治になって祥瑞説が一気にしぼむきっかけとなっていますので、さぞや恨み骨髄ってとこではあるんでしょうが…。ただ、本当は新聞記事自体、そんなに誤謬を正すってほどの内容でもないのですが、ちなみに、祥瑞に関係する部分というのは以下のとおりです。
「肥前の国有田の陶器は今より三百七十余年前永正年中伊勢五郎太夫祥瑞が明に入りて製陶術を学び帰朝の後初めて此地に工場を起せしが慶長年間藩主鍋島氏が更に朝鮮の陶工を移して支那朝鮮両国の長所をとり一種の窯術を開き夫れより製作いよいよ巧緻に赴きて古伊万里焼の如きは宇内(うだい/広大な世界)に伝えて珍賞せられしに…」
というように、有田磁器のはじまりは祥瑞で、その後朝鮮陶工を移したとしています。この誤謬を正すということですが、これに石割氏がかみついたのです。
「この時に有田地元の鍋島侯爵家では、時の当主直大氏を初め旧藩臣は右の日々新聞の有田の始祖を祥瑞だとする説に刺激されて急に藩出身の文学博士久米邦武氏等に命じて有田始祖の調査を急いだ。 — 祥瑞と有田との関係は決して日々新聞の新説でも何でもない、古来の通説で、これを否定するものの一説だもなかったのであるが、鍋島家は、かかる歴史的の問題に対しても、学究的の態度を離れて、政治的に有田窯の始祖を否認しようとした。この「成心」 — 或はさういふ潜在意識の許に「鍋島家の調書」は、旧藩主の御都合主義から割り出された調査である事を、この調査を熟読する者、直ちに看取する所であらうと私は思ふ。が、鍋島家の佐賀内庫所蔵の古記録を挙げて、博引旁証(広範囲に多くの例を引き、証拠を示して説明すること)至らざるなく、一代の史家久米邦武博士が調査主体者であっただけに、この「調書」が三度、年月にして六年に亙って発表さるるや、世の陶磁史家は、政治的に考究されたるこの調書を「根本資料」と軽信するに至った。そしてこの後の祥瑞と有田窯との関係は、おぞくも否定さるる事となった。」
な〜るほど…。祥瑞の否定は、悪どい鍋島家とその旧藩士たちによる政治的陰謀だった…だそうです。これには、まだ続きがありますが、長くなるので次回に回します。(村)R1.6.7