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有田の陶磁史(89)

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前回は、昭和9年(1934)石割松太郎著『祥瑞の研究』から、久米邦武の『有田皿山創業調子』の石割評について記しているところでした。後半です。

 

「祥瑞は、第一に李春亭の詩〔永正10年(1513)中国から帰国の時に五良太夫に送られた詩〕に累〔わずら〕はされ、第二に竹川竹斎説に謬まられ〔祥瑞の姓を松本あるいは山田としたことや、出世地を伊勢飯野郡西黒部村としたこと〕、第三には鍋島家の調書に賊された。私はこれを「祥瑞の三難」と唱へてゐる。 — が、茲に注目に値することは、第一、第二の両難は軽率の禍、悪意のない謬論に属するが、第三の鍋島家の調書に至って、作意のある歪め方と見らるる。即ち磁祖を藩主直茂の開いた窯の功に帰せんがための政治的の史実で、これらは厳正なる史家の採らざる所だ。私は久米邦武博士を崇敬すべき学者として従来観て来たが、有田の調書に至っては、流石の久米博士も旧藩の潜在意識をまともに受けて(?)「お茶坊主史実」を羅列してゐるに飽きたらないものだと敢えて言ふ。 — が、久米博士の為めに顧みて、この調書を精読すると、 — 前掲の「久米に遺す」の一項目を心読すると、この調書の大部分は久米博士の本意でなくて、鍋島公爵家の旧藩臣(?)の曲学阿世〔曲学をもって権力者や世俗におもねり人気を得ようとすること〕の徒の作意でなされたのかも知れぬと思はれる。 — 読者は、前掲の「久米に遺す」の一項目を更らに再読して下さい。年代を超越した「御道具」の見方、「陶」と「磁」とを混交した陶磁学上の認識不足は実に噴飯を禁じえない。長州、薩摩の維新資料に、二重の底があって、人に見せる資料と、ほんとの「藩」としての秘史資料との二タ通りを蔵してゐる事は、史家の等しく公認する所である。大名、大名華族なんて、表がかりは大きいが、その内実はケチな尻めどの狭いもので、自家の体面を不合理にも修めようとして、史実をも歪め顧みないのは嘆はしい。鍋島公爵家に「人」があるならば、有田始祖について更らに、世の学者に調査を嘱して学会のために日本陶磁史のために、祥瑞に就いて、正しき正直なる視覚に更めて学究的に再吟味を遂げてはどうかと、私は提案したい。そして明治十三年の「調書」の謬論に醒むるならば、宜しく有田全町を一望に納めてゐる勝景の地 — 陶山神社の一隅に樹てられた「陶祖李参平碑」を撤回し、代ふるに、「瓷祖祥瑞五郎太夫碑」を建立すべしとお勧めする。」

 

今回はほぼ引用に終始しましたが、いかがだったでしょうか。相当痛烈な批判が展開されていますが、『有田皿山創業調子』が一気に祥瑞説を冷え込ました要因ですので、昭和初期当時の祥瑞説の旗頭としては、一度叩いておく必要はあったでしょうね。ただ、別に鍋島公爵家や旧藩臣の意思が働いていたかどうかは知りませんが、久米氏にしても多少地元びいきはあったかもしれませんね。以前も記しましたが、積極的に祥瑞を否定する材料もないので、ガン無視戦略を取ったわけですから。でも、逆に少なくとも明治までの祥瑞説にさしたる根拠がなかったのも確かです。それに地元に残る古文書類には祥瑞のことはまったく出てこないわけですから、素直に史料に頼るなら朝鮮陶工説に傾いてもおかしくはないですね。

それにしても、「瓷祖祥瑞五郎太夫碑」ですか…。「陶祖李参平碑」とは、有田焼創業300年記念で建てられた碑のことですが、さすがに祥瑞の碑はいくらおすすめされても、ありがた迷惑ですね。以前ご紹介した鹽田力蔵氏流に言えば、「同地(有田)の大部分のものは朝鮮人の子孫である所から、さう伝ふこと(祥瑞説)を余り耳に入れない方である。」ということですから、おそらく碑自体が建てられなかったかもしれませんね。(村)R1.6.14

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