前回まで、昭和9年(1934)石割松太郎著『祥瑞の研究』から、久米邦武の『有田皿山創業調子』の石割評について記しているところでした。なかなか石割氏渾身の祥瑞説に届きませんでしたが、今日はその話しに入ります。ただ、『祥瑞の研究』では、石割祥瑞説があちこちにちらばって記されていますので、まとめるのが大変です。そこで、それに先立つ昭和6年(1931)7月5日発行の大阪朝日新聞から石割氏の「磁器の祖は誰か 「祥瑞」に関する新発見」と題した記事を参照してみたいと思います。
その前に、ちょっとおさらい。このシリーズのNo.87で、昭和初期当時の器としての祥瑞の位置付けについて、『祥瑞の研究』から引用しました。
「永正における史伝の祥瑞五郎太夫は、「祥瑞」磁器を支那から将来したもので、謂はば「古祥瑞」といふべく、又多くの伝来の「祥瑞」は、純然たる日本の茶道勃興以来の、倭趣味 — 即ち千利休以後の、茶道に、始終した「祥瑞」の趣味は、茶人小堀遠州が、支那へ注文して製陶せしめたものであるから、謂はば「第二の祥瑞」で、第一次、第二次ともに、「祥瑞」は支那製の将来品である。」
という説が当時の主流であったことが記されます。そのため、新聞記事では、
「故に「祥瑞手」というと祥瑞五郎太夫という陶工を認むる事が出来ない。支那藍絵の瓷器を三種別して、最上を「祥瑞手」次を「染付」次を「呉須」というのだ。__と説いて祥瑞五郎太夫という人間を陶瓷史上から抹殺された形である。」
とします。
という前提のもと、ここからが石割説の大胆な新解釈です。
「「居士五郎太夫」が了庵和尚と共に明に使したのは事実であり、李春亭に送られて永正十年に帰朝したのも事実、送ったのは李春亭のみではない。同行の正使了庵桂悟師を、王陽明が送別の序文が、同じ「隣交徴書」に載っている。が、ここに考うべき事は「居士五郎太夫」が、「祥瑞五郎太夫」だという事を何人も明確に考証したものを見ない。そして「居士五郎太夫」祥瑞だと誤認して、陶瓷史家は「祥瑞手」の伝来銘器との連鎖を探究して亡羊の嘆を喞(かこ)っている。史家の恥辱これよりまた大なるものはあるまい。」
この方の文章は、今ではあまり使われない用語が頻用されていて、ちょっと難しいですね。要するに「居士五郎太夫」という人が永正十年に中国から帰朝したのは事実だが、「居士五郎太夫」と「祥瑞五郎太夫」が同一人物だとことを検証したものは誰もいない。「居士五郎太夫」を「祥瑞五郎太夫」と誤認して、陶磁史家は「居士五郎太夫」と「祥瑞手」の伝世名品との関連を探究してなかなか真理に到達できないことを嘆いている。史家にとってこれほど大きな恥辱はないだろうというような意味です。
つまり、「居士五郎太夫」と「祥瑞五郎太夫」別人説ですね。なるほど、こうきましたか…。次回は、その理由についてです。(村)R1.6.21