前回は、昭和6年(1931)7月5日発行の大阪朝日新聞の石割松太郎「磁器の祖は誰か 「祥瑞」に関する新発見」と題した記事から、「居士五郎太夫」と「祥瑞五郎太夫」別人説について引用しているところでした。本日は、その理由です。
「「居士五郎太夫」と「祥瑞五郎太夫」とは、全然別人で、同名異人であると私は推断する。唯共通の点は、共に「伊藤」を姓とする「五郎太夫」であり、伊勢国大口村の産であることは(中略)」
「伊勢大口村の回送問屋(口碑伝説)伊藤家に永正のころ五郎太夫という者あり、了庵桂悟とともに明に使した。しかしこの五郎太夫は陶瓷には関係がない。この永正のころの五郎太夫とは別人の五郎太夫が、伊藤家にある、同じく約百年後に入明して陶瓷を伝習したということになる。」
というように、伊勢大口村の同じ伊藤家出身の血縁関係のある五郎太夫ということのようです。そして、久留米市高良山蓮台院で発見されたという記録ほかを根拠に祥瑞五郎太夫について述べられます。しかし、なぜ突然、久留米の記録が登場するんだと思いますか?あっと驚きの展開なんですが、それはおいおい明らかになるとして、説を先に進めます。
「一、文禄中、陶匠伊藤五郎太夫、蓮台院に来り、従士の列に加わり、薩摩国宝津より、大明に渡ることを願出ず、僧正、仁和寺の牒状を請い、これを許し、海陸安全の祈願を籠める給う(蓮台院記録)」
いつもの永正の伊藤五郎太夫ではなく、その子孫の伊藤五郎太夫が文禄年中に中国に渡ったということです。なるほど、これで久留米との関係は分かりましたね。でも、オチはまだ先。
「一、伊勢人伊藤五郎太夫、経文買入のため、入唐を許さる、その実は焼物稽古の由なり(厨氏記録)」
蓮台院がらみでしょうか、表向きは中国に渡った理由は経典の購入ということだったみたいですが、本当の理由は製陶修行のようです。これらの古文書の真偽はともかく、なるほどここまでは、あえて異論を挟むほどの矛盾はなさそうです。
一連の文書にはまだ続きがあって、驚くべき展開が待っていますが、長くなりますのでまた次回ということで。(村)R1.6.28