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有田の陶磁史(92)

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前回は、昭和6年(1931)7月5日発行の大阪朝日新聞の石割松太郎「磁器の祖は誰か 「祥瑞」に関する新発見」と題した記事から、久留米市高良山蓮台院で発見されたという記録ほかをもとに、もう一人の伊藤五郎太夫が製陶を学びに文禄年間に中国に渡航したというところまででした。本日はその続きで、いよいよ御説のクライマックスです。

 

「元和二年いとう五郎太夫、大明より帰る、焼物窯を、朝妻に造り、染付色絵を焼出することに妙〔=はなはだ巧み〕なり、御納戸より冥加金下さる(厨氏記録)」

 

本当の祥瑞だという伊藤五郎太夫が、元和2年に中国から帰国。渡航「文禄」、帰国「元和」なんて、どこかで見たような元号が並んでますね。それはともかく、ついに伊藤五郎太夫を磁器の創始者どころか、創始地まで福岡県久留米市の朝妻ってことにしてしまいました。これまでに例のない驚きの珍説、いや新説ですが、さすがに日本磁器久留米創始説はあまりにも大発見すぎて…、???です。

ちなみに、現在朝妻焼は、正徳4年(1714)、久留米第6代藩主有馬則維が有田や伊万里から陶工を招き焼かせはじめたとされますが、わずか10年ほどで廃窯になったと言われます。一気に、史料の信憑性がアヤシくなってきましたね。ただ、この現在知られている朝妻焼とは別物かもしれませんから、一応次の最後の史料を確認します。

 

「一、元和六申年吉田氏(有馬豊の国老吉田監物)の知行所、朝田村の一の瀬に窯を造る、一の瀬又朝と銘す(註_朝妻は「朝」と銘し一の瀬は「朝」と銘す、朝と朝はとの差別あり)(宕山見聞集)」

 

朝妻に続いて、元和6年(1620)には一の瀬に窯を築いたそうです。一の瀬焼は現在の福岡県うきは市にあるやきものの産地で、豊臣秀吉の朝鮮出兵の際に陶工を招いたとされますが、よく分かっていません。久留米藩の御用窯と言われ、江戸後期の文化年間(1804〜18)頃に最盛期を迎えたと言いますがその後廃窯となり、再び肥前の陶工を雇い入れ復活したものの、明治にはまた廃窯となり、昭和34年に再興されて現在に至っているそうです。

再び先ほどの文献に戻ると、朝妻焼と一の瀬焼はともに書体違いの「朝」の銘を用いていることが記されています。一の瀬焼の方は実体が分かりませんが、朝妻焼の方は、な~んだ、やっぱり18世紀の製品ってところ。高台内に「朝」銘を入れるのが特徴です。

 

「朝妻は五、六年、次に祥瑞の窯が移った一の瀬は一年余にして廃絶した。要は磁石の質が軟弱であった事が遺品によって、移転の理由が推断される。即ち高熱度の火度に堪へず製品に亀裂を生じたが為に此の両窯が永続きしなかったであろう」

 

とされていますが、それから有田に移ったとのことですので、いくら何でもちょっとムリっぽいです。

ちなみに、水町和三郎『伊万里染付大皿の研究』では、以下のように記されています。

 

「昭和六年より同九年に亙って故石割松太郎氏は第二期祥瑞観を根底より破壊する新祥瑞研究を発表されて一般我陶磁器界に多大の衝動を与へたが、当時専門家諸賢は極めて冷静な態度を持し之に対して反駁を企てやうともしなかった。之は要するに該研究は単に祥瑞文献考としては敬服に値する卓見的論拠を有するが惜むらくは史実に即せない一方的研究に過ぎなかったからであらう。」

 

と述べられています。まあ、いつもの祥瑞説ガン無視作戦と同じと言えば同じですが、そんなところだとは思います。本日はこれで終わりますが、次回もう少し石割松太郎著『祥瑞の研究』からおもしろい話しをさせてください。(村)R1.7.5

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