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有田の陶磁史(93)

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前回まで、昭和9年(1934)の石割松太郎著『祥瑞の研究』から、祥瑞による福岡県久留米市の朝妻における日本磁器創始説について、ご紹介したところでした。あまりに突飛すぎて脳ミソが付いていけませんが、やはりこれは浅学の至らなさのせいでしょうか。同書の中では、これについて、次のように記されています。

 

「然るに頃日、朝妻の地の古窯跡の発掘によって、祥瑞の磁法が第一にこの地に伝った事は、発掘品の鑑定によって、覆へされたなどとの新聞の浅薄なる報道が伝えられた。朝妻にも、新古の窯跡 ― 時代の推移がある。これを究めずして軽々に論断せんとするは、学問の道でない事を、こゝに申し添へておく。」

 

ごもっともでございます。重々肝に銘じさせていただきます。ですが、やはり高台の中に「朝」の銘が入るものはマズいんではないでしょうか?きっとそういったタイプの製品だと、たとえば皿なんかの場合は、外面の周囲に唐草が巡っていたりするとかね。今では、古伊万里様式って呼んでるやつですが。そういうのから、祥瑞が有田に移り住んでからは、外面無文の初期伊万里様式になるってことでしょうか?軽々に論断するわけではないんですが…。

もちろん、この書籍には、祥瑞が有田に移り住んでからのことも触れられています。ただ、朝妻磁器創始説にも増して強烈な御説ですので、よほど柔軟な脳ミソしてないと理解不能というか、最初、冗談かと思ってしまいました。ずばり!!項目のタイトルは、“「呉須権兵衛」を再吟味せよ”です。学問の道を極められた方の御説ですから、ちょっと期待が持てませんか?

呉須権兵衛とは『酒井田柿右衛門家文書』の「赤絵初リ」の「覚」に「こす権兵衛」の名で登場する人物です。初代柿右衛門である喜三右衛門は、伊万里の陶商東島徳左衛門に頼まれて赤絵を開発しようとしたもののなかなかうまくいかず、だいぶ散財してしまったそうです。例のなかなか赤の色が出せず、柿の実を見てようやくひらめいたってやつです。いや、実際には、柿右衛門家の文書には、柿の実どころか、どこを苦労したかということさえ出てきませんよ。あれは完全なフィクションです。それはともかく、それで、「こす権兵衛」の協力でようやく完成させたことが記されているわけです。少なくとも、現在残るものとしては、この記録にしか登場しない人物なので、どういう人だかまるで分かっていません。ちなみに、昭和11年刊行の中島浩氣著『肥前陶磁史考』などでは、高原五郎七の弟子宇田権兵衛が呉須の用法に優れていたためそう呼ばれたみたいな記載がありますが、それ自体どこから出てきた話しなのかよく分かりません。きっと、権兵衛繋がりじゃないでしょうかね。

話しはそれますが、こんな感じで話しがだんだん膨らんでいく背景には、一つには昔の文章の表記に関係するように思います。昭和30年代頃までの文章に多いのですが、“言う”を“云ふ”とか“云う”って書くことが一般的です。“○○と云う。”なんて書かれると、何か伝承でも伝わっていたかのように思ってしまいませんか?でも、残念ながら、そんな都合のいい伝承なんて、ほぼないですね。肥前陶磁に関する古めの著書にはかなり目を通しましたが、ほとんどは、幕末から近代の研究過程で、誰かが言い出したことのようです。まさに、この祥瑞自体がそうなわけですが。

ということで、今回は、残念ながら本文までたどり着きませんでした。また次回。(村)R1.7.12

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