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有田の陶磁史(94)

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前回まで、昭和9年(1934)の石割松太郎著『祥瑞の研究』から、“「呉須権兵衛」を再吟味せよ” に入ろうとして、『酒井田柿右衛門家文書』の「赤絵初リ」の「覚」に「こす権兵衛」という人物が登場するって話しで終わってました。

本日は、いよいよ石割説ですが、昭和初期頃には、「赤絵初リ」の「覚」とは別の、『酒井田柿右衛門家文書』の一つが紛失して行方不明となっていたといいます。しかし、ちょうど大正5年(1916)に彩壺会が発行した『柿右衛門と色鍋島』にその一部が「原句のまゝ(?)」転載されていることから、それを引用されています。ただ、現在では知られてない内容なので、本当にそんな文書があったかどうかは不明です。

なお、原文の中に( )書きがいくつかあるので、難しい読み方や意味を補足する場合は〔 〕を用います。

転載されている『柿右衛門と色鍋島』の内容は、

 

「酒井田家の記録に依れば『圓西は明人ゴスゴンベイ(呉須権兵衛)を聘し青磁及呉州焼の法を創設した』と伝ふが、呉須権兵衛は陶器に用ふる支那呉須を売買する商人であったと伝ふ説もある、果して明人であるか日本人であるか明でない、何れにしても圓西は『元和の初(二年)』有田南川原の地に来り住み、其子酒井田喜三右衛門は已〔すで〕に製陶を志し窯を築いて居ったが当時支那は明末で窯業の盛時である云々」

 

と記されます。

この中に圓西という人物が登場しますが、当時の陶磁史を学ぶ人なら当然知っている名前だったのかもしれませんが、現在ではほとんど取り上げられることがありません。石割氏の文中では割愛されてますが、『柿右衛門と色鍋島』中には最初に紹介されてますので、とりあえず引用しておきます。ただし、中身はほぼ妄想に近く、「伝ひ」とか「様である」、「謂はれ」などのところは、『酒井田柿右衛門家文書』の記述にはありません。ということは、ほぼ中身はないということですが…。

 

「酒井田家の祖は、酒井田圓西(天正二年 西暦千五百七十四年 — 慶安四年 西暦千六百五十一年)と伝ひ、相当の学問もあり、見識もありて、交遊広く、決して尋常人ではなかった様である。而して此人が已〔すで〕に、自ら製陶を試みたとも謂はれ、或は子の代に為って、始めて窯業に志したとも謂はれて居る。」

 

ということで、この後に先ほどの石割氏の引用文が続くことになります。今日は本論の石割説にたどり着きませんでしたが、長くなるのでまた次回ということで。(村)R1.7.19

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