文字サイズ変更 拡大標準
背景色変更 青黒白

有田の陶磁史(95)

最終更新日:

前回は、昭和9年(1934)の石割松太郎著『祥瑞の研究』から、“「呉須権兵衛」を再吟味せよ”の一節に入ったところでした。彩壺会発行の『柿右衛門と色鍋島』からの引用文を記したところでしたので、本日は、いよいよそれに基づく石割説の部分です。

 

「如上の記載の中、酒井田家の旧記録の言句の形を、そのままに存するものと思はるるを抽出すると、

「「圓西は明人ゴスゴンベイを聘し」

「元和二年」

との二句が、旧記そのままの記載だと思はれる。現に北島栄助氏著『日本陶器史論』二一二頁にも「元和丙辰の年」とあって、酒井田家記録に拠る旨の註記があるのに徴して、かう断定してもよからう。

ところで、問題は「明人ゴスゴンベイ」だ。彩壺会では「呉須権兵衛」と註記してゐるが、一体何の根拠あって、かういふ漢字が当てはめられたのであらう?考へてみる。

「明人」と断りながら「呉須権兵衛」といふからは、これは、明らかに明における姓名でなくして、日本における綽名〔あだな〕とも解さるるが、それならば、何故古記録に「ゴスゴンベイ」と片仮名で記されてゐるのだらうかを、一応疑ってみる。即ち「呉須権兵衛」と漢字を彩壺会が当嵌めたのか。何かの前人の典拠があって、彩壺会がソレを踏襲したのかが問題である。

〔おも〕ふに、前掲の「喜三右衛門」文書〔「赤絵初リの覚」〕には、「こす権兵衛」とあるに見て、彩壺会ではこの紛失した記録の分の「ゴスゴンベイ」に註記したのは、この喜三右衛門文書によったものだらうと推定される。

が、喜三右衛門文書をソノまま何の省察もなく踏襲していいだらう? — 問題はこれだ。従って彩壺会の言ふ「呉須を売買する商人」云々の如きは、屋上徒らに無駄な屋を架する贅言〔無駄な言葉〕だ。昔から来る一片の空想に過ぎない。

酒井田家の旧記録の他の部分の例を見ると、「しいくわん」「かうじ町」「かりあん」「おらんだ」「どうほふ」など、特別の時に仮名を用ひて権兵衛、太兵衛の如き場合に仮名を用ひた例がない。旧記を見ないで判断するのは、早計に失するやも知れないが、

ゴス。ゴンベイ(呉須権兵衛)

ゴ。スユンズイ(呉祥瑞)

と並記してみると、ここに何らかの誤読か、孟浪杜撰〔まんらんずさん/杜撰の強調表現〕の書き方が、存してゐるのではないか。私はこの旧記録を「呉祥瑞」と読み、祥瑞五郎太夫の影響が、柿右衛門の赤絵付に及んだものだと考へたい。」

 

すごいですね。大胆というか、ついに呉須権兵衛を呉祥瑞にしてしまいました。それで、柿右衛門の赤絵も祥瑞の影響ですか…?祥瑞は日本磁器自体も創始して、続いて赤絵の開発にも関わって、まさに八面六臂の大活躍ですね。さすがに、「ゴ。スユンズイ(呉祥瑞)」とは、凡人には思いもよらない豊かな発想ですね。でも、これがまだオチじゃないですよ。続きがあるんですが、また次回。(村)R1.7.26

このページに関する
お問い合わせは
(ID:1474)
ページの先頭へ
有田町役場 文化財課

〒844-0001 佐賀県西松浦郡有田町泉山一丁目4番1号

電話番号:0955-43-2678

FAX番号:0955-43-4185

© 2024 Arita Town.