前回は、昭和9年(1934)の石割松太郎著『祥瑞の研究』から、“「呉須権兵衛」を再吟味せよ”の一節をご紹介していました。ついに呉須権兵衛を「ゴ。スユンズイ(呉祥瑞)」にしてしまったところでした。こういうぶっ飛んだ説、好きなんですよね。この方の説は、まるで例の北島似水説なみの妄想度が興味をそそられます。前回の部分で、現に北島栄助氏著『日本陶器史論』に書いてあるみたいに引用されてましたので、読んでるはずですしね。さぞや、波長が合ったでしょうね。
実は前々回彩壺会の『柿右衛門と色鍋島』の引用は、最後は「圓西は『元和の初(二年)』有田南川原の地に来り住み、其子酒井田喜三右衛門は已〔すで〕に製陶を志し窯を築いて居ったが当時支那は明末で窯業の盛時である云々」という書き方で終わっています。しかし、実際には引用元は「云々」で終わっているわけではなく、別の文章が繋がっています。実は、この「云々」で止めたところがミソで、その続きには、石割説の呉祥瑞とは別の人物が入るのです。続きを記してみます。
「其頃の作品、所謂万暦赤絵の如き精巧のものは、日本では出来なかったのである。
然るに圓西は、兼々筑前博多の承天寺の住職某と、友として好かった。偶々流れ流れて、此承天寺へ落ちて来た、竹原五郎七(高原五郎七)と云ふ者が、染付磁器の製法に悉〔く〕はしく、此住職の紹介に依りて、五郎七が種々圓西の子喜三右衛門に教へて、始めて酒井田家の窯から、支那磁器にも劣らざる、立派の青華磁器が出来たと謂はれて居る。」
つまり、喜三右衛門が磁器をはじめた頃は、まだ万暦赤絵のような精巧なものは日本では作ることができなかったが、高原五郎七が教えて、中国にも劣らないような立派な染付磁器ができるようになったと言われているって書いてあります。
これは、磁器の製法を教えたのは、「ゴ。スユンズイ」の方じゃなくて、高原五郎七の方ってことですよね。そりゃ、そこまで引用すると話しがややこしくなるのは分かりますけど、ここも無視せずに、ちゃんと叩いといて、磁器の創始も赤絵の創始も、「ゴ。スユンズイ(呉祥瑞)」ってことにしといてもらわないと、ちょっと狐につままれたような気分です。
まっ、この方はこんなもんじゃなくて、もっとうわてですけどね。この後、「居士五郎太夫」と「祥瑞五郎太夫」の二人の五郎太夫を創り出した驚きの手法を再び繰り出すことになりますが、長くなるのでまた次回。(村)R1.8.2